1つのものごとも異なる角度からみれば、問題の奥行が見え、次の行動へのヒントになるかもしれない。この企画では、1つのテーマ、キーワードについて、異なる分野や立ち位置にいる3人に聞く。第一回は「若者の『居場所』」。揺れ動く時代の若者にとって、学校や家庭、友人や同好の場とも違う「教会」がどんな居場所になれるか。生きづらさを抱える青少年を支えるケアの視点とは。時には同じメンバーが集う教会の「外」にも居場所が必要かもしれない。異なる立場や働きの3人に聞いた。

水梨郁河(ふみか)=hi-b.a.(高校生聖書伝道協会)代表スタッフ

水梨郁河(ふみか)さん

 

「こんなにクリスチャン高校生がいるなんて驚きました!」九州からhi-b.a.のキャンプに参加した高校生が帰り際に言っていた。現在、若者の信仰の孤立化に拍車がかかる。教会に行っても、若い人は自分しかいないという信仰の孤立である。同世代がいる学校にいくが、そこでは信仰を持っているのは自分しかいないという信仰の孤立もある。同じ信仰をもち、同じ世代の仲間がいることはどれだけ大きな励ましだろうか。正解は検索すれば見つかる時代に、彼らは共に悩み、共に考え、同じものを見ている仲間を探しているのだ。

学校でのクリスチャンとしての立ち振る舞い、部活や模試がある日曜日の葛藤、親に従えない反発、制御できない恋心。なぜ、彼らは同世代での交わりを求めるのだろうか。なぜなら、彼らは常に、大人の「評価」という物差しに晒(さら)されている。先生、親、バイト先の店長、彼らの関わる大人は絶えず彼らを評価する(大人側にその意識があるないに関わらず)。その評価に息苦しくなり、教会に逃げ込んでみるが、そこでも再び彼らは評価の対象となってしまう。教会の文化に合っているのか、教会の期待に応える器か。若者に伝わっているのは期待という言葉をまとった重荷や責任であり、下心が見え隠れしている。

だが、教会でも学校でもない場所に、言葉にできない彼らの中にあるうねりをそのまま理解してもらえる場所がある。ままならないままでも祈り送り出してくれる場所がある。評価されない場所がある。これこそ、hi-b.a.に彼らが集い続ける理由ではないだろうか。彼らは互いに傍らに座り、励まし、慰め合う。同じ問題にぶつかっているからこそ、答えは見えて来ないかもしれない、解決はないかもしれない。しかし、そこで祈り合い、慰め合い、傍らにいてくださる聖霊に互いを通して触れてゆく。パラクレートス(傍らに呼ばれた者)とギリシャ語で紹介される助け主なる聖霊の働きが静かに、しかし確かな力強さを持って働いている姿がそこにはある。

聖霊に慰められた若者たちは、再びそれぞれが遣わされている学校や教会へと戻っていく。そこで彼らは、自分は決して一人ではないことを自覚する。聖霊が共にいてくださり、同じ時間に同じような場所で祈っている仲間の存在があるからだ、、、、、

2024年10月20日号 04面掲載記事)