Movie「黒く濁る村」――現代社会の善と悪の共存と対立描くミステリー
「現代社会での’善”悪’の共存と対立を描きたかった」
カン・ウソク監督に聞く
韓国の人気コミック「苔(こけ)」を原作に映画化されたミステリー「黒く濁る村」(カン・ウソク監督)が、11月20日から公開される。韓国で340万人を動員し、10月29日には韓国最大の映画賞「大鐘映画賞」監督賞、技術賞、音響技術賞、撮影賞の4部門を受賞。第23回東京国際映画祭にも出品したカン監督に、キリスト教系カルト的な村を舞台に展開されるこの作品について話を聞いた。
息詰まるスリリングな展開
山間にひっそり佇むチョンド村の重鎮ユ・ボッキョン先生がある夜急死した。チョン・ヨンドク村長(チョン・ジェヨン)が取り仕切る葬儀に、20年間音信不通だったユ先生の息子ヘグク(パク・ヘイル)が訪れる。自分と母を見捨てて便りも来なかった父の死。だが死因も調べようとしない村長や村の警官、村人たちの村長を恐れる様子に、異様な雰囲気を感じ取ったヘグクは父の死と村の謎を探り始める。父の家の地下室にある雑多の資料。地下室につくられた隠し扉と地下通路。父名義の土地や多額の財産が村長名義に変更されている事実。やがて30年前にサムドク祈祷院起きた27人の信者殺害事件が浮かび上がってきた。そこは、ユ先生と刑事をしていたチョン・ヨンドクが関わり持ち始めた場所だった。。。
2人の人物像に描き
出される現代の社会
これまでオリジナルのアクション作品を撮り続けてきたカン監督が、初めて原作のミステリーを映画化した。「この映画で描きたかったのは、キリスト教的な村という舞台設定と言うよりも、ユ先生とチョン・ヨンドクの人物像を通して、人間同士の恐怖がどういうものか描きたかった。ユ先生は、聖書を通して清く罪のない生き方を説き、その理想を実現できる村を作りたいと教導していた理想主義者。元刑事で村長のチョン・ヨンドクは、権力とお金で村人を治めていく現実主義者。そして、現在の社会が絶えず現実主義者が理想主義者に打ち勝っている状況にあり、それはそのままチョンド村の姿に投影させた。つまり、現代の社会全体は権力とお金というものに覆われていて、普遍的な理想や夢によって教化されている状況にはないうこと。だが、’善’と’悪’のどちらかが勝つということではなく、’善’と’悪’が絶えず共存している社会のあり様を、この2人の人物をとおして描きたかった」という。
もう一つ、ユ先生と村長の対比でもう一つ描きたかったことが、ユ先生の野菜やお米を調理しないで食べる’生食’のシーンにあるという。「ユ先生は、心の奥底にある罪を悔い改め、罪を犯さないきよい生活を送れるよう、’生食’を村長や村人たちに勧めながら村づくりをしてきた。だが、村長はその後で、村人たちと肉料理を食べて腹を満たす。ユ先生は、欲望を捨ててきよい生活を強い意志を持って求めるよう教えるが、村長は欲望を埋めていく。人間は現実を逃避して生きることを出来ないことを遠回しに描いたつもりです」
いまこそ本当の意味で
’救い’が必要な世の中
これまでどの作品でも、現代社会への鋭い批評眼を表現してきたカン監督。姉はプロテスタントの牧師で無神論者の自分を除いて家族は教会に所属しているという。だが、いまの韓半島・中国・日本の間の緊張関係や社会での悲惨の出来事を見聞きする度に「自分は、いかにおぞましい世界に生きているのだろうかと感じる。本当に宗教でもすがらないと生きていけない世の中になっているのではないか。人を貶めたり、殺したりするおぞましい出来事が多く、今こそ本当に’救い’の必要な世の中が来るのではないかと思っている」と語る。
ユン・テホの原作「苔」は、ウエッブコミックではこれまでに最高のアクセス数を記録した。ミステリーとはいえ、人間の心にへばりつく苔のような湿り気と重さは、あまり大衆受けするとも思えない。映画では、その人間の欲望の果てに浮き上がってくる哀しさと現実をスリラー仕立てで演出していく。エンターテイメントな作品の中に込められた、’善”悪’の共存と対立を日本ではどのように読み取られるのだろうか。 【遠山清一】
監督:カン・ウソク 2010年/韓国/韓国語/161分/映倫:PG12/原題:苔/ 配給:CJ Entertainment Japan 2010年11月20日より丸の内TOEI、シネマスクエアとうきゅうほか全国ロードショー。
公式サイト http://kurokunigorumura.com