Movie「別離」――新しいイラン文化にも息づく名誉と尊敬の間で
思えば’離婚話’には、社会のあらゆる問題が繋がっている。男女間の愛情が根本にあるのだろうが、子どもの養育や将来の教育への配慮、男女の社会的地位や生活力、あるいは家庭内の家族構成や老齢者の介護など、小さな傷が大きな’離婚話’という亀裂へと深まるように。
ナデルとシミンは結婚14年の夫婦。もうすぐ11歳になる娘テレメーとナデルの父との4人暮らし。物語は、家庭裁判所でのナデルとシミンの離婚の調停から始まる。シミンは、夫ナデルへの愛情がなくなったわけではないという。ナデルもシミンを嫌っているわけではない。「では、なぜ?」という裁判官に、シミンは「子どもの将来を考えて国外移住したいが、ナデルが娘と一緒に外国で暮らすことを認めてくれないから」と理由を言う。ナデルは「介護が必要な父親をイランに置き去りにして、外国へは行けない。娘は自分で育てる」と主張する。間に置かれ、戸惑いと不安の中でなんとか家族一緒の生活が戻ってほしいと努力するテラメー。
別居のままのナデルは、家の掃除と父親の介護のためにラジエーを雇った。7歳になる娘と仕事にやってくるラジエー。だが、学校から帰るテラメーを迎え帰宅すると、父親は左手をベッドに縛り付けられたまま、ベッドからずり落ち失神していた。急いで、父親を介護しているところに戻ってきたラジエー母子。ナデルは憤りをあらわに手荒くラジエーを追い返してしまう。
翌日、ラジエーが夜に入院したとの知らせがナデルとシミンに知らされる。二人で病院に見舞いに行くと流産したことを教えられ、ラジエーの夫ホッジャトはナデルに殴り掛かる。ラジエーは、ナジルに突き飛ばされ階段を転げ落ちたのが流産した原因ではないかという。19週目の胎児を死なせた罪で、ホッジャトはナデルを告訴した。ナデルはラジエーが妊婦であったことを知っていて雇ったのか。ラジエーは本当に突き飛ばされて階段を転げ落ちて倒れたのか。互いに愛する者、自分を守るため小さな嘘が見え隠れし、その上塗りが複雑に絡み合い何が嘘で、どこまでが本当のことか、虚々実々の論争が展開していく。
銀行員のナデルと英会話教師のシミンの一家は、二人ともそれぞれにマイカーを持っており、部屋の中には衛星テレビやピアノなど経済的には豊かな中流家庭。生活観や価値観は、イスラム文化を尊重しながらも西洋的な感覚を持っているようだ。一方のラジエーは、夫のホッジャトが失業中で娘の手を引きながらバスに乗ってこなければならない所に住んでいる。シミンよりも保守的で敬虔なイスラム教徒として生活していることは、黒いチャドルに長いスカーフを被っている身づくろいからも窺われる。
コーランと旧約聖書の文化が交差し名誉と年長者を重んじるイスラム社会を、一面的なイメージで捉えやすい。だが、旧約時代から根付いている名誉と年長者を重んじるなどのアジア的文化は、今日の新しい社会の中にも息づいている。サウジアラビアやイラン、イラクなどはイスラム宗派が国の中に指導的立場を占めているかによって、その現れ方には大きな違いもあるが、ホメイニ革命を経て、女性の役割と地位が評価されてきた新しいイランの文化。貧富の格差のなかで生活全般には、イスラム法を基盤に営まれている今日のイラン姿。二つの家庭のいざこざをとおして、人間の内面と世相を感じさせ、読み取らせてくれる脚本、カメラワーク、そして出演者たちの演技に、ベルリン国際映画祭金熊賞や今年発表された第84回アカデミー賞外国映画賞などを獲得したこともうなずける。 【遠山清一】
監督・脚本:アスガー・ファルハディ 2011年/イラン/123分/原題:Jodaeiye Nader az Simin/英題:Nader and Simin, A Separation 配給:マジックアワー、ドマ 2012年4月7日(土)よりBunkamuraル・シネマほか全国順次ロードショー
公式サイト:http://www.betsuri.com