8月13日号紙面:宗教改革を神代氏が講演 「信仰のみ」の原点確認 第49回日本伝道の幻を語る会
日本キリスト伝道会(森稔会長)主催の第49回「日本伝道の幻を語る会」が7月25、26日、「『宗教改革500年』─信仰の原点に立て!─」を主題に、千葉県市川市の山崎製パン企業年金基金会館市川サンシティで開催された。講師に山口陽一氏(東京基督教大学教授)、神代真砂実氏(東京神学大学教授)が立ち、音楽ゲストに姫野徹氏(オーボエ奏者)、シモン合唱団が奉仕した。【髙橋昌彦】
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2日目午前には、神代氏が「宗教改革者ルターが説いた『信仰』とは」と題して講演、「今日はその原点を考えたい」として語り始めた。
ルターが語った宗教改革の原理としては、「恵みのみ」「信仰のみ」「聖書のみ」「万人祭司」が挙げられる。「万人祭司」とは、「すべての信徒は自ら神に祈り、互いにみ言葉をもって慰め合うことができるということ」。「聖書のみ」とは、「私たちの信仰にとってのただ一つの基準が聖書であり、教会の伝統が聖書より上に来るということはない」。「信仰のみ」とは、「ただ信仰によってのみ救われる」ということで、言い換えると、『恵み』によって救われるのであり、人間の業や功績によるのではないということ」と解説した。「私たちの信仰を神が認めてくれるのではなく、ただ神の恵みにより信仰を通して与えられるのが救い。救いに人間の側の条件は伴いません」。
「では『救い』とは何か」と問いかけて、「今の私たちにとって当然の『信仰義認』とは、ルターにとっては当たり前ではなかった」と当時の状況を話した。「彼が学んだ神学では、人間は自分の力で神に近づくことができ、『自己の中にある限りをなす』つまり、最善を尽くすことで神は救ってくださり、そして救われた後も、最善を尽くし続けなくてはいけなかった」。しかし、「最善を尽くしたかどうかは人間にはわからないし、どれだけやったら神は満足するのかもわからない。いつまでも救いの確信に至らないことが、ルターの苦しみであり、彼にとって『神の義』とは、私を罪に定めるだけのものであって、つまるところ、ルターには神が分かっていなかった」と言う。
ルターは、聖書に向かうことで「神の義」を発見することになった。「罪によって壊された私たちの意志では、自ら神に向かうことはできない。イエス・キリストこそが『義』であって、神がその『義』を人間に帰してくれることで、私たちは義とされる。それを信仰を持って受け取ること。この時キリストの『義』とは、私たちとは異質なもの、人間には属さず、人間の外にあるものである。『義人であって同時に罪人である』という言葉は、徹底的に罪人の私たちが徹底的に義とされることであって、部分的には罪人で、部分的には義人ということではない。自分の徳をすべて捨て去って、神の恵みの元へ行くこと、それをルターは『徳から恵みへの脱出』と言いました」
一方でルターは「洗礼によって私たちはまず新たに生まれるのであるが、(中略)なお人間には肉と血において、古いものが並び存している」と言った。神代氏は「部分的に義人、部分的に罪人、と言えなくもない。その両者が戦っている状態が信仰生活であり、神の言葉に向かい、み言葉によって励まされていく中で、成長し信仰者になっていく。その『聖化』の過程の一つひとつの場面に全体が現れ出ていると、ルターは考えていた。私たちも礼拝でイエスに出会うとき、自分のうちにある全き罪と全き赦しを体験する。その両方を確認しながら、み言葉によって励まされていくことが信仰生活だと言えるだろう」と話した。
「外なるもの」とは「神の言葉」とも言い換えられる。ルターは、「キリストを見出そうとする者は、まず教会を見出さなければならない」と言う。神代氏は「教会は、神の言葉を聞くところであり、その義も信仰も教会を通して見出される。また、キリストと結びついていない信仰は虚しく、偶像礼拝にすらなる。キリストによる恵みを受け取る時だけ、その信仰は良いものである。信仰は、神にすべてを帰して、人間には何も帰さない。それが信仰の格闘を経てルターが捕まえたものであり、だからこそ『信仰のみ』としか彼は言うことができなかった」と語った。
最後に日基教団・富士見町教会の牧師であった島村亀鶴氏の逸話を紹介した。信徒から「ただ信じればいいんですよね」と聞かれて、島村氏は「『ただ』は『ただ』でも、ただの『ただ』ではない」と答えた。神代氏は「言葉の核心を捉えたものだと言える。ひたすらキリストに頼る信仰であって、自分が謙遜であるなどとも考えない。その信仰がみ言葉によって養われ、キリストによって自分のものとすることができるなら素晴らしい」と勧めた。