11月19日号紙面:国際「正義・平和」アシュラム 榎本保郎牧師没後40周年記念 不安な時代こそ神のことばを
アメリカ人宣教師E・スタンレー・ジョーンズによって始められた、みことばへの徹底した聴従を実践する超教派のキリスト教運動「アシュラム」。日本では、日本クリスチャン・アシュラム連盟と故榎本保郎氏が立ち上げたアシュラムセンターを通して、各地に広まった。さらに、「多くの国々に散らばっているアシュラムの友が、階級、人種、年齢、性別などすべての垣を超えて緊密に編まれた交わり、霊交をもつ」というスタンレー氏が掲げたアシュラムの考えに基づき、アシュラムセンターと台湾愛修会共催で2004年に始まったのが「国際『正義・平和』アシュラム」だ。14回目となる「国際『正義・平和』アシュラム」と、榎本保郎牧師召天40周年記念会が9月25日から27日まで、兵庫県神戸市のANAクラウンプラザホテル神戸と日本基督教団神戸聖愛教会を会場に開かれ、台湾から29人、インドからのゲストスピーカー、日本からも合わせ、70人あまりが集まった。【宮田真実子】
アシュラムセンター主幹牧師である榎本恵氏は、開催の意味をこう語った。「私たちの住む東アジアは、隣国から飛んでくるミサイルや核兵器に怯え、国家の指導者同士の激しいことばのやりとりに不安になり、世界がどんどん平和とは程遠いところへと進んで行ってしまうのではと恐れます。しかし、そんな時にこそ、私たちは決して変わらぬ神のことばに耳を傾けようではありませんか。主題聖句はイスラエルのユダ王国の危機に預言者イザヤを通して与えられた神のことばです。落ち着いてしっかりと目を開き、静かに心のうちに語りかけたもう、神の声を聴き、何物をも恐れることなく、語り歩みましょう」
召天記念礼拝・講演会
2日目には、榎本保郎牧師召天40周年記念礼拝と講演会、そしてコンサートが開かれた。
記念礼拝では、イエズス会日本管区補佐、上智大学副学長の山岡三治氏が「ゆれない土台づくりを」と題し説教。青年時代に榎本保郎氏が主催していたアシュラムに参加し、まるでそこにイエス様がおられるかのような氏の祈りに衝撃を受けたという。「『土台』は上にあるものの運命を決するもの。みことばに聴き従うことを『土台』とするならば、揺らぐことはない。保郎氏はさらに神の語りかけを聴けば、すぐに行動する人だった」
山岡氏は、その後献身へと導かれた。説教の中では今年が宗教改革500周年という節目であることにも触れ、「ただみことばを聴き、たどたどしい歩みであったとしても、カトリックとプロテスタントという壁を越え、平和を求め、共に祈り求めることが神のみこころではないか」と語りかけた。
森下辰衛講演会
礼拝に引き続き、三浦綾子文学館特別研究員の森下辰衛氏が登壇。「一番大切だったもの〜三浦綾子と榎本保郎、二人のアホウが照らす道」と題し、講演。「保郎先生も、綾子さんも、『にもかかわらず』キリストに従う『アホウ』だった。損得で考える人間の価値観ではしないこと、損なことを、神に救われたものとして、あえてした二人。その進んだ先には奇跡が起こった」
保郎氏が存命中から、今に至るまでアシュラムセンターが発行し続けている月刊「アシュラム」。巻頭言を保郎氏が書き、「壺」という連載を当時すでに売れっ子作家となっていた三浦綾子氏が書いていた。「綾子さんはこの連載を、なんと原稿料なしで、さらに私たち研究者として驚きなのは、身体の状態が悪く、すでにほとんどの原稿が床の中での口述筆記であった時代において、手書きで書いていた、ということです。それほど、大切にしていた。時に、保郎先生の巻頭言と呼応するかのような原稿もあります。『祈ることは自分を吟味することなんだと受け止めた』と書かれていました」
重い病を抱え、ある意味死を覚悟しながら神のご用だと、突き動かされるように働いていた2人の心温まるエピソードも紹介された。保郎氏は雑誌のインタビューで三浦文学の魅力を聞かれ、「それは綾子さんの弱さだと思う。自分のようなものに祈ってくださいと言われた」と答えた。「自分が死んだら葬儀の代わりに伝道集会をしてほしい」と綾子氏に頼んでいたという。「『私より若いのに、嫌よ』と綾子さんは言いましたが、保郎氏が亡くなった後、小説『ちいろば先生物語』を書いたのは、このことばへの綾子さんなりの返事だったのだと思います」
神に示された人々と、かかわり続ける
沢知恵コンサート
夜には沢知恵さんによるピアノ弾き語り、「平和あいさつコンサート」が開かれた。「保郎先生に捧げます」と「かかわらなければ」という曲を熱唱。ハンセン病元患者で詩人の塔和子さんの詩に沢さんがメロディーをつけ、完成させた曲で、ハンセン病元患者の現状を知り、知ったからには、かかわらなければ、伝えなければという思いで作られたものだ。
沢氏は、ハンセン病療養所や災害被災地などでも活動している。保郎氏も生前、ハンセン病施設での伝道など、「かかわるように」と神に祈りの中で示された人々とかかわり続けた。沢氏は、そのほか「死んだ男の残したものは」、沖縄に平和を願いながら「さとうきび畑」など、歌い上げた。
充満の時
最後のプログラムは「充満の時」。保郎氏はアシュラムセンターを立ち上げたものの、わずか2年半で天に召された。恵氏はこう語った。
「父が召されて40年。40という数字は聖書にとって、とても意味があり、区切りであり、一つの世代が終わる時でもある。父が召された時、もうこのアシュラムの働きはダメになってしまうのではないかと多くの人が考えたと思う。神はこの働きがまさにこれからというときに、やすやすと指導者を取られた。しかし、この働きは続けられた。それは榎本保郎の働きだからではなく、神の働きだったから。神が『わたしがついているから力強く歩め』とおっしゃってくださった。人間に従うのではなく神に従うことを神は求めておられる。父は『無責任の責任』と言った。神に委ねるとは無責任の極み。それは神が責任をもってくださると信じること。アシュラムの指導者は主イエス・キリストのみ。新しい歩みを始めよう」
ハンセン病施設訪問
「国際『正義・平和』アシュラム」では、海外からの参加者にとって日本の意義深い場所へのオプションツアーが組まれている。2年前には、被災地・福島への訪問だったが、今回の行き先は岡山の国立ハンセン病療養施設長島愛生園と邑久光明園、それぞれにある教会。愛生園の単立・長島曙教会では大嶋得雄牧師、良兵牧師が出迎えてくれた。
恵氏によると、長島曙教会とアシュラムとは切ってもきれない仲だという。保郎氏は毎朝の早天祈祷会で、聖書を旧約から新約まで一日一章ずつ説教をしていた。この録音テープを、長島曙教会に送り続けた。病ゆえに視覚に障害をもち、手のしびれで点字も読めない人たちも多かった。そんな信徒たちにとって、そのメッセージテープはまさに宝だった。何度も何度も聞き、またその感動を自分たちだけのものにしていてはもったいないと、日本全国のハンセン病施設にもダビングして送った。それが、榎本保郎の名を、全国に知らせるきっかけとなったのだという。
曙教会には、今もその元となったテープが保存されている。文字通り伸びきって、保郎氏の声を知る人たちにとっては別人かのような声なのだが、それでもそのメッセージは今も聞かれ続けている。
新刊『聴くこと祈ること』榎本保郎著 1300円+税 いのちのことば社
榎本保郎牧師召天40周年記念企画として発刊。月刊「アシュラム」の巻頭言「瞑想」をまとめたもの。1971年の今治教会牧会時代から、ロサンゼルスの地で天に召される1977年7月号の絶筆まで。氏の単行本化されていない原稿はこれで最後となる。今の時代こそ、聴かれるべきメッセージだ。