3月25日号紙面:国内リーダーが一堂に 九キ災NPO法人化で「日本宣教フォーラム」
2018年03月25日号 08面
2016年の熊本地震後、熊本、福岡を中心に設立された支援組織、九州キリスト災害支援センター(=九キ災、横田法路代表)は継続的な支援活動を続け、後の九州北部豪雨災害などでも活動し九州全体にネットワークを広げている。九キ災は、NPO法人化を契機に、国内外で活動する支援や宣教のリーダーたちを一堂に集めた、日本宣教フォーラムを3月9日に福岡市の八仙台閣本店で開いた。この多彩な内容を数回に分けて、横田氏(日本イエス・油山シャロームチャペル)がレポートする。
横田氏
ユージン氏
フォーラムは3部から構成され、第1部は、シンガポールの支援団体タッチインターナショナルのユージン理事長から、「コンパッション:あわれみ」について語られた。
第2部は、「支援から宣教を考える」というテーマのもと、大友幸一氏(宮城宣教ネットワーク代表)が基調講演をしてくださった。東日本大震災は確かに大きな苦しみ・試練をもたらしているが、「宣教という視点で見るならその試練は決して無意味ではなかった」と言う。ネットワークや「家の教会」を通して、教会形成が難しいと言われていた東北地方の農村、漁村にクリスチャンが生まれ、教会が始まっているからである。
この基調講演を受けて、小平牧生氏(キリスト兄弟団西宮教会牧師)は、発災から23年が経つ阪神淡路大震災の経験から語られた。緊急支援の段階にあっては、外からの支援は重要であるが、やがてはそこに生きる者たちの日常的な相互支援へと進んでいくこと、そして「教会は、苦しみのなかにある人を支援するためにあるというよりも、むしろ苦しみの真ん中にあって、自らも苦しむ者たちとしてともに生き続ける」あり方が大切である。苦しみを過去に追いやるのではなく、思い起こして語り続けることで、「より大きな神の歴史の中に私たちの人生を位置付けることができる」ようになると指摘する。
熊本地震の経験から、九キ災の諸藤栄一氏(熊本ベースディレクター)が応答した。東北の場合と同様に、「キリストさん」と呼ばれるようになっていった。そこから気づかされたことは、被災者から見える九キ災はすべて「キリストさん」であり、教団・教派を超えたキリストは、一つの体であるということであった。そのプロセスとして、支援の継続、ボランティアの被災者に対するキリストの愛と従順があったということである。
九州北部豪雨災害での経験から、竹崎光則氏(九キ災元日田ベースディクレター、日田福音キリスト教会牧師)が応答した。炎天下の中毎日泥かきをする九キ災のボランティアの「誠実さやいたわりやボランティア同士の一致を見て、信頼してくださった」という。また教会が支援に関わっていく時、牧師と信徒のビジョンの共有やコミュニケーションの大切さを語られた。
九キ災関係者の振り返りや考察をまとめた『「キリストさん」と呼ばれて 支援の現場から宣教を考える』(九州キリスト災害支援センター編、いのちのことば社、1.944円税込、A5判)が刊行された。
支援団体の立場から、清家弘久氏(日本国際飢餓対策機構理事長)が、まず応答された。災害支援ボランティアの働きは、実質的には、阪神淡路大震災から始まり、東日本大震災、広島の土砂災害などで、NPOも教会もどのように対応するかの経験が積み上げられてきた。その中でも特に「できるだけ早く被災地入りする」初動の大切さを学び、実践していることを話された。
永井敏夫氏(クラッシュジャパン代表理事)は、自分たち諸支援団体がこのように協力し合って仕えることを、イエスさまが喜んでおられるのではないかと感動をもって語られた。また支援と受援を互いに神様の恵みを受け取る機会とし、日本的な「おたがいさま」という視点が良いのではないかと提案された。
片山信彦氏(ワールドビジョンジャパン常務執行役員)は、大友氏が取り組まれている統合的宣教は、社会的責任と霊的働きを果たす教会の使命であり、それはワールドビジョンのHolistic Ministryと同義である。ワールドビジョンはあくまで部外者であるがゆえの限界もあるが、可能性もある。あくまで地元が主役であるが、専門性をもち、客観的判断、外からの視野、行政や他のNPOとの連携に協力することができる。
金剄勲氏(CGNTV総括本部長)は、anytime, anywhere, anyone(いつでも、どこでも、だれでも)が情報発信する時代に入ったこと、そしてこれは福音の観点からすると、大きな危機でもあり、チャンスでもある。特に災害の現場においては、事実報道と同時に、聖書の語る苦難のメッセージと回復のメッセージを中心に、霊的メッセージを放送しなくてはならないと語られた。
最後に、座長である中村陽志氏(九キ災副理事長、熊本ハーベストチャーチ)は、「今回の災害支援でもネットワークが用いられた。しかし『ネットワーク』という表現は無機質な感じするが、『友情』がもっとふさわしいのではないか。神はそのような友情を用いて働かれる」と語られた。(つづきは次号以降で掲載予定)。