9月16日号:“法は「個人の犠牲」を許さない” 憲法は世代を超えた「未完のプロジェクト」と JECA・南関東信教の自由平和祈祷会で齊藤氏
2018年09月16日号 05面
日本福音キリスト教会連合南関東地区で、8月12日平和祈祷会が開催された(同信教の自由委員会主催)。講師は恵泉女学園大学人間社会学部教授の齊藤小百合氏。「打ち捨てられたもののための憲法」の演題で、現在の政治社会状況を俯瞰しながら、日本国憲法の存在意義とそこにも通底する聖書のメッセージについて語った。以下はその講演要旨。
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現在の日本の社会は「底が抜けてしまった」様な状態だと思われる。政府の国会軽視の姿勢、オウム死刑囚13人の刑執行、国会議員の「生産性」発言、大企業の不正、ヘイトスピーチに見られる他者への憎しみ、少数派への排除。さまざまな領域で今まで大事にされてきた原理原則が、根底の部分から省みられなくなっている。少数者差別に見られる、性別、宗教、国籍など恣意的な基準で人を排除することは、さらにその集団の中で新たな基準で排除される人が生まれることにもなる。
恣意的に排除される人のない「公共性」を保つために必要なのは、「ここでともに生活しようとする意志」であり、民族的出自や歴史的な記憶、属する宗教集団や言語単位などの相違を超えた、自分自身である個人として公共社会の一員となろうとすること、である。それは現行憲法13条の「すべて国民は、個人として尊重される」ということであり、個人の意志を公共社会の出発点におく、立憲主義的憲法の土台である。
「追い詰められた、たった一人を守るもの。それが法とデモクラシーの基」(木庭顕『誰のために法は生まれた』)という言葉がある。法律とは「社会の規範を国が定めたもの」などではなく、集団のために犠牲にされることから個人を解放するものだと考えるべきだ。集団が強要する犠牲は、多くの場合明確でなくソフトなものなので、声を上げづらい。集団は、小さな違法の「事実」を積み重ねることで、現状を肯定し「規範化」しようとする。しかし、法が法である以上は、普遍性、公共性、公平性があるものでなければならない。
その法体系の頂点にあるのが憲法だが、70年前に作られたものを生かしていくためには、常に監視する必要がある。その趣旨を守るためには、時代に応じて法律を改正する必要も生じる。それは、憲法前文に「われらとわれらの子孫のために」とあるように、世代を超えた共同作業として取り組んでいく「未完のプロジェクト」である。
旧約聖書に「アナウィーム」という言葉がある。詩篇では「貧しい者」と訳され、「地のくず」「打ち捨てられたもの」とも言われる。イエスは彼らと共に生きようとした。社会の周縁に追い込まれ打ち捨てられた人々を、たった一人の掛け替えのない個人としてそのまま社会に包摂し、共に生きること。それこそがイエスのメッセージである。
様々な違いを抱えながら仲間でありたいという願い、ここで共に生活しようとする意志を共有して共に生きる社会を担っていきたい。日本国憲法はそのための礎であり、私自身も、そのことに憲法の理解を通して少しでも力を尽くせたらと思っている。