言葉、文化の「ズレ」に関心持ち続け 舞台「赦し」の原案・原資料担当 四国学院大学名誉教授 加瀬豊司

 戦後、赦しと神の愛を語ったジェイコブ・ディシェイザー宣教師を題材とした舞台「赦し」の原案・原資料を担当した加瀬豊司さん(四国学院大学名誉教授)。高校時代にディシェイザー宣教師と出会ったことによって、聖書の世界、日本語と英語、日米国際関係の三つが人生の中心になった(5面参照)。

 米国日系二世の研究を通し、日本の英語教育で課題とされてきた「発信型コミュニケーション」の打開策を、英語論文執筆の実践を通して示した。留学時代は日米の文化、価値観の違いで苦労した。博士論文のアドバイザーからは“talk,talk,talk to death”(話せ、話せ、死ぬほど話せ)と言われてきたという。その訓練の賜物か、インタビューでは舞台のこと、米国での経験、日系人、学生、家族、教会のことなど豊富な学識とともに、次々と話が展開した。【高橋良知

 両親は愛知県のろう学校(当時)に勤務。加瀬さんも生徒たちと交流し、彼らの伝達への熱心さが強く印象に残った。愛知教育大学では英語教育を学び、サークルで英語のディベート、スピーチ、演劇に取り組んだ。「言語学の問題をセリフにして、分かりやすくすることに興味を持ちました」。卒業後は、県立高校の定時制での英語教員を務めると同時に、省庁の外郭団体の日英語通訳、国際交流に携わった。このような経験を通して、言葉や文化の「ズレ」に関心をもった。

 1974年に難関のフルブライト奨学金を得て、ワシントン州立大学(WSU)大学院に留学。膨大な課題図書、レポート執筆、討論に追われたが、戦時中の日系人収容所について知った。

 帰国後しばらく公立高校の教員を続けたが、研究を深めるために、大学教員を目指す。明治期のアメリカ移民の母村が多く散在していた瀬戸内海地方に注目し、香川県のキリスト教主義学校、四国学院大学に就職した。一年の研究期間を利用し、米国メリーランド大学の博士課程に入学。そこでWSUよりもさらに厳しい授業を経験した。「思考、語学、議論のパワーと精神力はそこで身についた。たとえば『調査と記憶の世界』(What)は努力すればできる。

『思考と説得力』(Why)が文系研究者の腕の見せ所だと実感しました」

 その後、四国学院大学で教育、研究、役職に忙殺されながら、時間を見つけては米国に通った。多くの日系人二世をインタビューし、博士論文では3人の人生に絞り込んだ。

 論文「文化変容と人間変容−ワシントンの日系二世ライフヒストリーを通して−」は「『外国人には分からない=日本人にしか分からない』ことで、言語化されていないことを異文化に向けて発信すること」を目指した論文だった。

 価値観が異文化の中で変化するという動的な見方に立ち、日系二世が、親世代から教わった日本文化をどのように解釈・評価しているか、アメリカ社会的価値観と日本の文化的価値観がどう共存するのかを分析した。

 伝える相手(アメリカ人)も考慮した。「新渡戸稲造が、日本文化の真髄を異文化の相手に伝わるよう発信するために『武士道』をイメージとして使ったように、“samurai”など英語の文脈で確立しているイメージを使いました」

 「二世たちが過酷な社会状況下で、アクセスできるすべてを有効利用し、それぞれの人生を主体的に構築したように、身近な日常世界に存在するものを知的世界に組み込み、言語文化世界を著者なりに構築した」と述べる。この研究が基となり、前作舞台「てぃんさぐの花」が制作された。

 毎年学生、ゼミ生らを引率して米国を訪問してきた。そこで遭遇したトラブルや出会いは、話題にこと欠かない。9・11テロのときには、襲撃を受けたワシントンのペンタゴン(アメリカ国防総省本庁舎)の近くにいた。「帰国を延期した。学生たちも『一緒に死にましょう』と語るなど悲壮感がありました」。あるときはホテルで銃撃戦に遭遇。ハリケーンの避難、ホテル火災からの脱出ということもあった。「海外で死ぬかも知れないという体験をしたからか、世界観が変わる学生も多い」と言う。卒業生は、米国で学び学者になった人、国際関係の仕事に就く人、地域の行政、教育に携わる人など活躍の幅は広い。

 家族もそれぞれの場で活躍する。長女は日本帰国後、改めて米国へ高校留学し、愛知県県庁の国際課で活躍する。長男の宣雄さん(京都中央チャペル牧師)は伝道旅行の直前にバイク事故に遭い、昏睡状態になるという経験もした。「本人にとっても信仰的に徹底的に砕かれた経験だと言っており、私も信仰を試された経験だった」と振り返る。「妻からは信仰を励まされた。妻の曾祖父は札幌農学校でクラークから学び、日本人初の農学博士となり、北海道大学の学長も務めた佐藤昌介。その信仰や教育者の在り方からも学んだ」と話す。

 舞台「赦し」では「自身の主体も問われた」と話す。「『てぃんさぐの花』の基になった日系二世のインタビューでは、私自身は、日本で生まれ育った人間としての客観性があった。しかし、今回は直接ディシェイザーと交流した主観も入っているのです」

 深い学術的洞察による人間理解に加え、個人の思いが込められ、制作される舞台に期待が募る。