闇の中に光あれ─イエスとアウグスト、アブラハムとバベルの塔─ メッセージ 金性済(キム・ソンジェ) 日本キリスト教協議会総幹事

飼い葉おけのイエス

身重のマリアとヨセフがベツレヘムに来たとき、宿屋の客間には人があふれていたので、仕方なく、家畜小屋でマリアはイエスを産み、赤子イエスは布にくるまれ、飼い葉おけに寝かされていた、と言います。
しかし、ベツレヘムがヨセフの故郷であったのなら、なぜ、身重のマリアを連れたヨセフは親族の家に迎え入れられなかったのでしょうか。30年後に宣教活動をはじめられたイエスにナザレの人々が非難する言葉を投げかける際、普通父の名をもって一人の人間の血筋を表現するのに、わざわざ、そこで母親の名前が持ち出されました。それは、この男は誰が父親かわからない生い立ちを抱えた人間だ、という侮蔑の意味を含むことになるのです(マルコ6・1~3)。

低きところを選ばれた神の心

イエスの誕生の背景にこのような事情があることは、その30年後にイエスがなさった神の国の宣教を理解する上で、イエスのそのような暗い、被差別体験の生い立ちが極めて大切な意味を持つようになるのです。それは、大いなる救いのご計画の実現のために、神がいつもこの世界の片隅においてつらい涙の現実をくぐってきた人々を選び出し、そして用いられることと、このイエスの生い立ちとが深くつながっていることを意味するのです。それは、旧約聖書のアブラハムの選び(創世記12・1~3)にまでさかのぼれる聖書的な真実です。故郷ウル(ユーフラテス川河畔の町)出身のアブラハムが、事情があってはるか北のハランでよそ者(寄留者)として暮らしていたときに、神の選びと召しを受け、祝福を約束され、そしてカナンに送り出されました。すなわち、聖書の神とは、寄留者の、あるいは地の果てによそ者として生きる存在の神となられたことが、アブラハムの召命において示されているのです。

神の「否」

アブラハムの召命と信仰の旅路の出発を考えるとき、今一つ忘れてならないことがあります。アブラハムがそもそも出発した場所ウルは、創世1~9節に記されたバベルの塔建設が破綻したシンアルの平野と重なるのです。人が自らの富と権力によって大勢の人間を動員し、自分で自分の名前を高め、神の高みに至ろうとした試み(人間の神格化の誘惑)の破滅について聖書は語ります。そして、人間の罪による破綻の場所からアブラハムの出発が始まったことは、アブラハムの信仰の道がバベルの塔的悪に対する抵抗を暗示していると言えるのです。
この人間の神格化の誘惑に対する信仰的な抵抗の構造を、私たちがルカの福音書2章1~7節にも見出すことは偶然ではありません。ローマ帝国の東の地の果ての飼い葉おけにお生まれになったイエス(7節)とは対極的に、礼拝の対象ともされ、また徴税政策の一環として住民登録(人口調査)を断行した皇帝アウグストが本文冒頭の1節に位置付けられ記されていることに、私たちはやはり人間の神格化への信仰的抵抗の告知に気づかされるのです。
日本国憲法の政教分離原則を堂々と破り安倍政権が徳仁天皇の大嘗祭(人間の神格化)の国家行事を断行し、また国民がそれを容認してしまった事実をつい先日のこととして記憶しながら、私たちは今年、クリスマスを迎えています。
この日本の現実のただ中で、私たちは、ルカの福音書2章1~7節の聖書とどのように向き合いことができるでしょうか。私たち、日本のキリスト教会は救い主の喜びの知らせと共に、またどのように否を否と証しできる証人たり得るか祈らねばなりません。

キリストの証し人の道

キリストの証人(証し:マルトゥリア〈語源:殉教〉)として世に遣わされる私たちは、宿屋の外、また飼い葉おけのような「地の果て」にあるいのちに寄り添い、そして神ならぬものを神格化する罪と腐敗の構造に目を閉ざさず「否!」と抗う福音信仰に生きる存在です。
「闇の中に光あれ」と御声をとどろかせ来てくださる主の再臨の春を待ち望む希望の祈りをささげながら、私たちはこのクリスマスにその信仰をもう一度確かで新たなものにしていただくものとなりましょう。