2015年02月08日号 2面

寄稿・木村公一 日本バプテスト連盟福岡国際キリスト教会協力牧師

「夜回りよ、今は夜の何どきですか、夜回りよ、今は夜の何どきですか」
(イザヤ21・11、口語訳)

安倍晋三首相のイスラエル訪問時(1月20日)、同じ中東の過激派組織「イスラム国」と見られるグループが、昨秋から人質にしている日本人の2人の動画を公開し、2億ドル(240億円)の身代金を日本政府に要求してきました。皮肉にも、「2億ドル」は安倍首相が今回の中東諸国への土産として、「イスラム国と闘う周辺諸国を支援する」(安倍首相)軍資金と同額でした。安倍首相は交渉中にも関わらず、なぜか挑発的な言葉を連発しました。
人質のひとり後藤さんが日本基督教団・田園調布教会の教会員であることから、多くの牧師たちに「人質解放のための祈り」の要請メールが転送されてきました。私も祈りの末席に連なりますと返信しました。人質たちの生還は多くの日本人の人情です。しかし、私たちの「祈り」が国家イデオロギーによるプロパガンダ(政治宣伝)に取り込まれるなら、大きな罪を犯すことになります。
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ここで政治に関わる祈りについて考えてみましょう。言うまでもなく、祈りは人情の言葉ではなく、神の言葉に根ざした歴史認識を必要とします。詩編に綴られた様々な祈り、預言者たちの祈り、福音書の「主の祈り」などは、実に深い歴史認識を湛えています。だからこそ、長い歴史の風雪に耐え抜いて今日まで継承されてきたのです。歴史認識を不問に付した「祈り」はどこかカルトの呪文に似ています。
けれども人々が捧げる祈りに耳を傾けていると、祈る人が意識するしないに関わらず、一定の歴史認識が下敷きになっている場合が多いようです。その最悪の例を記せば、原爆を搭載して広島へ飛び立とうとする米軍爆撃機の乗組員の安全と任務の完遂を祈った「エノラゲイの祈り」。戦時中、日本の教会が英米打倒を謳った「戦勝祈願」の祈り。礼拝の中で戦地に送られる青年に「無事の帰還」を願って捧げられた「出陣の祝祷」。これらはすべて、祈る人の意識がどうであれ、一定の国家イデオロギーに基礎づけられた「祈り」であると言えます。
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世界は「イスラム国」のテロを非難します。わたしもテロを憎みます。けれども一般的に言って、「イスラム国」への非難には共通して欠けている視点があります。それは、諸帝国(米欧露及び彼らを支持する日本)とイスラエルがこれまで行ってきた国家テロに対する批判です。去年の8月、イスラエル(シオニスト国家)がパレスチナの500人の子どもたちを爆殺しました。この国家テロを非難しない諸帝国は、イスラム国のテロには容赦ない非難を浴びせます。
世界中からムジャヒディン(「イスラム聖戦士」)として「イスラム国」へ集まる若者たちは、この国際的に「合法化された」国家テロを黙認する不正義に対して抗議の叫びを上げています。今回の人質事件は安倍政権の愚政および欧米の植民地政策と深く関係しているのです。イスラム国が欧米人や日本人を人質にして身代金を要求したり処刑したりする動画を世界に公開して、欧米諸国や日本をイスラム国との戦いに参加するよう誘っているかに見えます。イスラム国のこの挑発を逆手に取って、「人質解放」を名目に自衛隊の武力行使も辞さないという、日本国憲法を踏みこえる極めて危険な冒険主義の道を進んでいます。
イザヤは私たち(教会)に「夜回りよ、今は夜の何どきですか」と、神の言葉によって研ぎ澄まされた時代認識を求めています。「人質解放の祈り」は、現代の諸帝国が行っている国家テロに対して、私たちがいかに向き合うべきであるかという宣教(ミッション)の課題を、祈る私たちに差し出しているのではないでしょうか。