戦没者遺族の視座から 国会の動き注視し警鐘 西川重則氏の訃報に寄せて

 本紙編集部からの電話で「西川重則さんが7月23日に亡くなられました」との一報を受け、敗戦後の日本を天皇主権から主権在民の民主主義国家へと歩む指針となった日本国憲法の擁護者としての存在の喪失感をあらためて覚えさせられている。筆者は、本紙編集部元記者として憲法特集や8・15特集などの企画面での原稿依頼や信教の自由・政教分離原則関係の裁判など西川氏の護憲と平和創出への活動に比較的長期間同行取材する経験に与(あずか)ることができた。西川氏の訃報に接し、一人の市民キリスト者として日本国憲法改訂に警鐘を打ち続けた歩みを偲(しの)び、編集部からの依頼に応えたいと思う。

愛読書は聖書と日本国憲法

平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会(略称:平和遺族会)全国連絡会代表、キリスト者遺族の会実行委員長、政教分離の侵害を監視する全国会議事務局長など九つの超教派や市民団体の代表・事務局長を歴任してきた西川氏。その精力的な活動を粘り強く継続してきた原動力は、ビルマ戦線に派兵されていた敬愛する実兄が24歳で戦病死した戦没者遺族であることが大きい。この悲嘆の原体験は、戦没者遺族の視座から日本国憲法を注視し、憲法改訂への動きに警鐘を鳴らし続けた。
また、西川氏自身戦時中、海軍飛行予科練習生(予科練)として入隊し徳島の航空隊へ配属され敗戦を迎えた。戦後、上京して改革派・東京恩寵教会に通い始め回心して受洗。以来、地方での講演や裁判の支援活動などでも日曜日は所属している改革派・東京教会の礼拝に出席できるよう日程を調整し、水曜日の祈祷会も休まないように努め、福音を知らない人を教会に招き、キリスト者として証しする生活を優先していた。
就職した新教出版社編集部では国会担当を務めた。宗教法人靖国神社を非宗教の特殊法人化して英霊(戦没者)尊崇の儀式行事などを国と地方自治体の経費で護持しようとする靖国神社法案での国会注視は、史料価値の高い『靖国法案の五年』『靖国法案の展望』(すぐ書房)に結実した。
筆者が西川氏の知己を得たのは、1980年代の山口自衛官合祀訴訟や歴史教科書問題、岩手県議会靖国神社訴訟などからであった。岩手靖国訴訟では幾度か口頭弁論の折に夜行列車で盛岡市まで同行した。戦前の右翼が実践した一殺多生の思想と行動が話題になったとき、西川氏自身、新幹線のトイレに押し込まれ恫喝(どうかつ)された経験を語ってくれた。
出版社を退職した99年からは、国会の開会中は本会議や委員会の傍聴に注力された。そうして見えてきたことは、憲法改定への動向を「戦争は国会から始まる」と糾弾し、天皇には戦争責任があったと明確に説き、日本国憲法を擁護する立場だが象徴天皇制といえども天皇は不要と自身の天皇観を明言していた。そうした厳しい姿勢の発言には、キリスト者の中にも疑問を抱く人たちもいる。だが、「愛読書は聖書と日本国憲法です」と語っていた西川氏の願いは、主権を持つ市民の一人ひとりが憲法の条文と意味に習熟し、意見の交換と対話で、分断ではなく平和を作ることへの協調にあったのだろう。西川氏の著書『わたしたちの憲法 前文から第103条まで』(いのちのことば社)の「あとがきにかえて」の一文から警鐘を打ち続けた西川氏の想いを振り返りたい。
「『不断の警告は自由の代償』です。アジアに対して侵略・加害の歴史を繰り返した日本が、再び、『戦争の惨禍』を政府の行為によって起こすことのないよう、最高法規であり基本法である日本国憲法を〝わたしたちの”憲法にすることが、何よりも今、緊急に求められていることをもう一度記したいと思います。
『平和をつくる者は幸いです』(マタイの福音書5・9)」
【遠山清一:本紙元編集部記者】