マレー博士を演じるメルギブソン(左)とマイナー役のショーン・ペン。 (C)2018 Definition Delaware, LLC. All Rights Reserved.

世界最高の英語辞書と評される『オックスフォード英語辞典』(OED)。各語の語形とその語義を歴史的に遡って用例を示し、辞典編集の規範といわれるOED初版は、1858年から準備を始め第一巻が1884年に刊行され、準備から70年後の1928年に最終の第12巻が刊行され約41万4千語と約183万の引用例を収録した。本作は、OED編纂の礎を築いた編纂主幹の言語学者ジェームズ・オーガスタス・ヘンリー・マレ―(1837年2月7日 – 1915年7月26日)と、OEDの引用文献最大の貢献者の一人だが殺人を犯し“狂人”と呼ばれた精神病院に収監されていた外科医学博士ウィリアム・チェスター・マイナー(1834年6月22日 – 1920年3月26日)によるOED誕生秘話。マレー博士を演じるメル・ギブソンとマイナー博士を演じるショーン・ペンの熟演に、言葉への情熱を絆に英語辞書の土台つくりを導いた二人の尊敬し合う心情が響いてくる。

たたき上げの言語学者と
心の病で殺人を犯した博士

1872年、ロンドンの法廷でアメリカ人の外科の医学博士でアメリカ人の元陸軍大尉ウィリアム・マイナー(ショーン・ペン)が裁かれている。南北戦争のとき心の病になり退役後ロンドンに移住していたが、夜の街頭でアイルランド人に襲われると叫びながら誤ってジョージ・メレットを銃で殺害した。マイナー自身は正気だと主張するが、裁判所はマイナーの精神疾患を認め無罪とし、ブロードムア刑事犯精神病院に無期限の収監を判決を下す。新聞は“ランベスの悲劇”として遺された身重の妻イライザ(ナタリー・ドーマー)と6人の子どもたちの情況と事件を報道した。

同じころ、OEDの三代目編纂主幹に推挙された文献学会評議員ウィリアム・マイナー(メル・ギブソン)は、オックスフォード大学の出版局に召喚されていた。だがOEDの理事たちは、スコットランドの貧しい身分の出自で学士号を持たないマレーに懐疑的な態度を隠さない。ただ一人、二代目編纂主幹の言語学者フレデリック・ジャームズ・ファーニヴァル(スティーヴ・クーガン)は、マレーのユニークな発想こそが必要だと自ら一理事に退くことで説得する。マレーは妻エイダ(ジェニファー・イーリー)に「受けたなら最後までやり通して」と励まされながら、見出しとなる単語を収集し正しいつづりと発音だけでなく、語彙の意味がどのように使用されてきたかを示すため、日常英語の用例を聖書を始めシェイクスピア、ミルトンや記録、印刷物などから広く収集するため英語圏の人たちにボランティアとして参加を呼び掛ける「声明文」を作成し、販売書籍などに差し込んで宣伝するという新たな編集方針と研究方法を編み出した。

被害者の妻イライザは殺害者マイナーから病院内で読み書き教育や教養を授かるうちに憎しみが氷解し複雑に心が揺らいでいく (C)2018 Definition Delaware, LLC. All Rights Reserved.

マイナーが精神病院内の事故で脚に大けがした看守を麻酔もかけず切断手術を断行して命を救ったことで、看守のマンシー(エディ・マーサン)は敬意をもってマイナーに接している。だが、マイナーはこの出来事から戦時中、命令により脱走兵の頬に焼き印を押したときのトラウマがよみがえる。精神病院のブレイン院長(スティーヴン・ディレイン)は、由緒ある家柄の出身で医学博士号の学位を持つマイナーがなぜ“狂人”にまで陥るのかに関心を抱き、読書に専念したいというマイナーの希望を受け入れ書籍リストを提出させる。

貧しい地域に住むメレットの遺族が暮らしに困窮していることは想像に難くない。米国から送られてくる年金を未亡人イライザに渡して援助したいと申し入れるマイナー。だが、夫を殺害したマイナーから援助されることは耐えられないとかたくなに拒否し続けたイライザ。だが、クリスマスらしい食事もできない子どもたちを不憫に思い、マイナーと対面することを条件に援助の申し入れを考えると約束する。殺害者と被害者の妻との対面。ブレイン院長はマイナーの変化に観察しようと、イライザを後押しして対面を継続させる。ある日、イライザが書店から持ってきた本に差し込まれていたマレーの「声明書」を読み、マイナーは文献用例のボランティアをしたいと決意し、申し出たいとブレイン院長の承諾を得た。マイナーの教養はすさまじい速さでマレーに用例を送り始めた…。

聖書、失楽園など豊潤な言葉の
大海に神の足跡を達路人たち

本作は、サイモン・ウィンチェスターが1998年に著したベストセラー・ノンフィクション“The Professor and the Madman: A Tale of Murder, Insanity, and the Making of The Oxford English Dictionary”(邦訳『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』早川書房刊)の映画化で、メル・ギブソンが映像権を取得し20年間温めてきた作品。
英語辞書づくりがテーマなだけに日常使われる単語の綴りや発音の正確さ、その意味の変遷を果てしない言葉の大海から用例を収集して位置付けていく様子が興味深い。文通だけで交流していたマレーとマイナーが、精神病院で初めて対面するシーンで聖書やミルトンの『失楽園』などから紡ぎだす豊潤な言葉のやり取り。自らの妄想に苛まれる苦しみと他人を殺害した呵責のなかで辞書の用例文献の働きで言葉と向き合うことは神の足跡を達路ことだったというマイナーの言葉が印象的。

被害者の妻イライザがマイナーからの援助を受ける決心をし、無学な自分に言葉を教え子どもたちに知識を与えてほしいと願うマイナーの誠実さに氷解していくの心の軌跡。OEDの編纂に“狂人”の殺人者が協力していることが報道され、学閥の横やりを受けて政治問題化するサスペンスフルなストーリー展開。マレー博士の妻エイダが、夫が編集主幹を降ろされる苦境に際し冷静に立ち向かう挿話など、史実の重みとともに心の声に忠実に自分らしく生きようとすることの気高さに心を動かされるヒューマンドラマの秀作に仕上げられている。【遠山清一】

監督:P・B・シェムラン(ファラド・サファニ) 2019年/イギリス=アイルランド=フランス=アイスランド/英語/124分/映倫:G/原題:The Professor and the Madman 配給:ポニーキャニオン 2020年10月16日[金]よりヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国ロードショー。
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