クリスマスメッセージ 「神が革命を起こされた」 メッセージ 小山英児 TPKF栄シャローム福音教会牧師

今年の7月に私は新型コロナウイルスに罹患しました。
医者から死の危険を告知され、病室で朦朧(もうろう)としながらふと手元のスマホでフェイスブックを見ました。すると妻が祈りの要請をアップしていて、それに対して多くの方々から祈りのコメントがされているのが目に飛び込んできました。取るに足らない自分のため心配して祈ってくださっている兄弟姉妹たちがいることを知った時、病気だけでなく、私の心も癒やされました。
教会に迷惑をかけないよう人一倍気をつけていたのにも関わらず、「どうして自分が」というところでした。
ただ考えてみますと、イエス様を宿したマリアは、誰よりも「どうして自分が」と考えたのではないでしょうか。そんなマリアは歌います。
ルカ1章46~55節のマリアの歌は、ラテン語の最初のことば、「あがめ」という意味の「マグニフィカト」(Magnificat)という呼び名で有名です。ビバルディ、バッハ、ラフマニノフ、そしてU2のボノが、このマリアの賛歌に影響を受けて曲を書いています。これは新約聖書に出てくる賛美歌です。
もっとも、51~53節を見ると、賛美歌というより「革命の歌」のようにも聞こえます。リビングバイブルではこう訳しています。
─その御手はどんなに力強いことでしょう。主は心の高ぶった者を追い散らし、権力をふるう者を王座から引きずり降ろし、身分の低い者を高く引き上げ、飢え渇いた者を満ち足らせ、金持ちを何も持たせずに追い返されました。─
レ・ミゼラブルの「戦う者の歌が聞こえるか」に通じるような歌詞です。
権力の問題、格差社会…。2千年前のクリスマスの舞台も、今と同じような問題がありました。ローマ帝国に支配され、隷属していたイスラエルの人々…。貧困と飢えに苦しみ、革命を夢見ていた人々がいました。

小山英児氏

もっとも、一般的に言う「革命の歌」とは違う側面があります。それは、ここで記されている動詞の主語はすべて神ということです。「革命のために共に立ち上がって戦おう!」と歌っているのではなく、神の御子が自分の体内に宿ったことによって、「神が革命を起こされた」とマリアは歌っているのです。そういう意味でクリスマスは、「神が革命を起こされた日」と言えるかもしれません。この日から歴史は、「世界の常識」は、一変しました。「やられたらやり返す」という復讐の連鎖が砕かれました。「力と富」がすべてとされた世界を神がひっくり返されたのです。
教会の暦で、クリスマス・シーズンをアドベント(待降節)と呼びます。アドベントはラテン語(adventus)で「到来、到着、接近」という意味があります。つまり焦点は、私たちが何か行動を起こすことではなく、神が行動を起こされること、神の力強い御業が到来することを「待つこと」にあります。
しかし、現代社会において「待つこと」は、あまり肯定的に捉えられない傾向があります。「待つこと」よりも「行動」を起こすことが求められます。「祈りの人」よりも「行動する人」のほうが、評価が高いと思います。
当時の革命家たちもそうでした。ある意味当時の革命家たちは、「自分たちが行動を起こさなければいけない」という思いが強すぎて、神の力強い御業を見誤り、イエス様のことを認識することすらできなかったと言えます。
もちろん「行動」は大切ですが、まず何よりも主を待ち望み祈ることが重要です。祈らなければ、私たちは神のみこころに反する行動すら起こしかねないことを忘れてはいけないと思います。というのも、私たちはこう考えるからです。
「神はきっとローマ帝国の首都で大きなことをされるに違いない!」
しかし、神はローマ帝国の辺境、ガリラヤのナザレという村で行動を起こされました。
「神は、きっと、人々が認める英雄を用いられるに違いない!」と私たちは考えます。
しかし、神は、抑圧されていた、貧しい、ひとりの少女を選び、用いられました。
「生まれる子どもは、やがて、力によってローマ帝国の圧政からイスラエルの民を解放してくれる」と考えます。
しかし、イエス・キリストは、ローマ帝国に捕らえられ、十字架につけられ、死に、葬られ、3日目によみがえることを通して、すべての人を暗闇の力から解放してくださいました。
イエス・キリストの十字架は、まさに心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
この世界は、上を下に、下を上にひっくり返す、救い主、力ある方、聖なる方、あわれみ深い方が、今、生きておられることを知る必要があります。
今年は頻繁に、人類が新型コロナウイルスに打ち勝つことができるかという話題を耳にします。私たちは思い起こすべき聖書の話があります。それは、イエス様の弟子たちが病気を癒やすことができなかった時、その理由をイエス様がこう答えられたところです。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません」(マルコ9・29)
今年のクリスマスは、私たちの教会もそうですが、例年のようにプログラムを行うことができない教会がたくさんあると思います。今年は、へりくだって神に両手を挙げて降参し、救い主イエス・キリストを待ち望み、祈る時としてみるのはいかがでしょうか。
主は私たちの祈りを用いて御業を行われます。今年、私はそのことを体験しました。
御国が来ますように。