アメリカ大統領就任式で見えた政治的分断 立場違えど共に務め担えるように ルイビル日本語教会牧師 佐藤岩雄

1月20日にアメリカ第46代大統領に就任した民主党のジョー・バイデン氏。だが、6日にトランプ前大統領の支持派が国会議事堂を占拠する事件が起きるなど、分断されたアメリカを一つにまとめるのは容易ではないことが想像される。大統領就任式の様子とともに、今後、アメリカは、またアメリカのキリスト教会はどのような方向に向かっていくのか。ルイビル日本語教会の佐藤岩雄氏にレポートしてもらった。

バイデン氏が大統領に就任しました。また、初の女性、アフリカ系、そしてアジア系の副大統領としてカマラ・ハリス氏が就任しました。今回の大統領就任式は、コロナ禍の中で出席者は制限され、2週間前に暴動があった議事堂を2万5千人の州兵が囲み、旧大統領の出席しない、これまでになく異例ずくめの式典でした。
一方、米国大統領の就任式は、クリスチャンにとって現在の米国のキリスト教界の潮流を感じ取る手がかりともなります。そもそも大統領就任式は、キリスト教会の礼拝形式を色濃く反映しています。
最初の祈りをささげたレオ・J・オドノヴァン神父は、学識豊かなイエズス会士です。式典に花を添えるように、今回も3名の有名なアーティストが歌唱し、卓越した詩の朗読がありましたが、これはいわば礼拝の賛美などにあたるでしょう。聖書朗読はありませんが、初代大統領の就任以来、新大統領は聖書に手を置いて宣誓をする伝統があります。
バイデン大統領は、大きなファミリーバイブルを用いました。ハリス副大統領は、公民権運動の火付け役であったローザ・パークス氏の聖書を含めて、二つの聖書を重ねて手をおきました。つまり、これらの聖書は、宣誓者の職務遂行への思いを表すシンボルともなっているわけです。
聖書を用いた宣誓後の大統領の就任演説は、いわば説教の部分と言えます。演説においてバイデン氏は、繰り返し民主主義による一致を呼びかけました。カトリック信徒として詩篇や古代キリスト教会最大の教父アウグスティヌスの言葉を引用したのも印象的でした。
最後に、大きな声で社会正義を訴える祝祷をささげたシルベスター・ビーマン牧師は、黒人教会として最も由緒のあるアフリカン・メソジスト監督教会に所属しています。今回、白人のプロテスタントの牧師が登壇しなかったことも、バイデン氏の姿勢を伺わせる出来事だと感じました。
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現在、私の住む米国南部、中西部だけでなく、全米でバイデン大統領の支持者と、今回の大統領選挙は不正であると主張するトランプ前大統領支持者が混在しています。各地の日本語教会にも、双方の立場の方がおられるようです。仮に選挙にかかわる不正の有無が証明されたとしても、キリスト教界におけるこの政治思想の分断は続くだろうと言われています。
これは、バイデン大統領、もしくはトランプ前大統領が、個人的に熱心なクリスチャンかどうかという問題の枠を超えています。政治的分断の深層には、人工中絶の問題、移民問題、性的少数者の問題、教会と国家のあり方などについての米国社会の判断基準が、人種・文化・価値観がこれまで以上に多様化する中で、建国以前から国家の精神的支柱として貢献してきたキリスト教会の倫理基準とずれることへのジレンマがあると言われています。
私が感じているこの政治的分裂についての感覚は、もちろん課題は全く違いますが、例えば日本で天皇の戦争責任などを議論するような状況に譬(たと)えられるでしょうか。それは単なる政治指導者個人の人柄や行動に帰属することで収められる課題ではなく、民族や国家の歴史、文化、伝統への誇りや痛みの経験といったすべてが絡み合う、時に感情的な確執に発展することもある課題となります。実際に、政治対立をあおるように極端な主張を繰り返すキリスト教指導者もいます。
一方、米国の複数の福音派の指導者たちは、キリスト教会が、国家や特定の政治的立場ではなく、聖書的な「神の国」の価値観を反映させた共同体にならなくてはいけないと訴えています。私自身、在米の教会の牧師として、異なる立場であっても、共に地の塩としての務めを担うことができるように、兄弟姉妹と共に祈ることから始めています。
信仰者が一つとなることで御父の愛を「この世が知る」(ヨハネ17・23)ことになると主イエスが祈られたように、お互いのために祈り合うことの大切さを教えられています。