映画「ファーザー」ーー認知症の父を愛する娘、そのカオスな心象世界へ
今年3月の第93回アカデミー賞にて「羊たちの沈黙」(2001年)以来29年ぶりにアンソニー・ホプキンスが2度目の主演男優賞を獲得して話題になった作品。原作者のフロリアン・ゼレールがクリストファー・ハンプトンとともに脚本を書き初めてメガホンをとった本作は、観る者を認知症の父親が陥っていくカオスな心象世界へと導く。脚色・構成・編集の妙が、絶望だけでは閉じられないカタルシスを感じさせられる。
介護士を解雇する認知症の父親
だが娘のアンがパリへ行くという
ロンドンで一人暮らしの父アンソニー(アンソニー・ホプキンス)の元へ娘のアン(オリヴィア・コールマン)が駆けつける。介護人のアンジェラから、暴言を吐かれたから辞めたいという連絡が入ったのだ。81歳になるアンソニーには認知症が出始めている。だが、「一人で何でもできる。誰の助けも必要ない」と頑なに介護人を嫌い3人目の解雇になる。そんな父にアンは、ロンドンを離れるから、今のように毎日は面倒を見られないと告げる。「なぜだ?」と驚くアンソニー。アンは心から愛せる人と出会い、彼の住むパリへ行くのだと何度も説明し話してきたのだが、「見捨てるんだな」と憤慨するアンソニーに、アンは「週末とかには会いに戻ってくる。お父さんを独りにはしない」と約束する。
ある日、アンソニーがキッチンで紅茶を淹れているとドアが閉まる音がした。リビングに知らない男(マーク・ゲイティス)が座っていた。男はアンの夫のポールだと名乗り、結婚して10年になるという。さらに、ここはアンソニーの家ではなく、自分とアンの家だと主張する。混乱するアンソニーの目の前に、今度は見たこともない女(オリヴィア・ウィリアムズ)が夕食用のチキンを買って来た。「誰だ?」と尋ねるとアンだと名乗る。男はチキンを受け取ってキッチンへ行った。アンソニーは、仕方なくアンとしてポールと名乗った男のことを尋ねると、彼女は離婚して5年以上になるから夫などいないと呆れたように答える。アンソニーは、キッチンヘ行って見ると男の姿はなく、「たわごとで、正気を失いそうだ」と途方に暮れるのだった。
新しい介護人のローラ(イモージェン・プーツ)が面接に訪ねてきた。癖は強いが魅力的だった父親の変化に胸を痛めながらも、アンは気丈に振る舞い、ローラを父に紹介する。珍しく機嫌のよいアンソニーは、ローラにウイスキーをふるまって乾杯し、元エンジニアなのに「ダンサーだった」とふざけて、タップのステップまで披露する。だが、笑い転げるローラに一転、辛辣な言葉を投げつけたアンソニーは、今度はアンと彼女のパートナーが結託して、「この家を奪うつもりだ」と娘を攻撃する。アンは深く傷つくが、時には突然「いろいろ、ありがとう」と感謝を口にする父を、嫌いになることなどできなかった。
さらに別の日、アンソニーが夕食の時間かとキッチンへ行くと、新たな見知らぬ男(ルーファス・シーウェル)がいた。男から「アンの話をしよう」と持ち掛けられたアンソニーは、「アンとは合わない」と答え、アンの妹のルーシーがどんなに素晴らしい娘かと語り始める。彼女は画家なのだが、もう何か月も会っていないと暖炉の上に掛けてある絵を見ながら嘆くアンソニーに、アンがポールと呼ぶその男は、「いつまで我々をイラつかせる気です?」と厳しく迫る。
父の世話をするべきか、自分の人生を歩むべきか、思い悩むアン。アンソニーは、過去と現在、事実と幻想が混濁していく。ここは自分のアパートなのか、アンはパリへ行ってしまうのか、なぜルーシーは消えたのか、あの見知らぬ男と女の体は? …。
認知症のアンソニーの
視点で物語が展開する
冒頭から物語の展開に困惑させられる。アンソニーの暴言で介護人が辞めるというを電話を受けて駆けつけたアンは、自分はパリに行くことを何度も話してきているという。初めて聞くかのように「なんで英語も話せないない所へ行くんだ」と訝るアンソニー。ドアが閉まる音がしてリビングに行って見ると見知らぬ男が居て、やがて見知らぬ女が買い物から帰って来てアンソニーに「ただいまパパ」という。まるでミステリアスなサスペンスドラマが展開していく不安な感覚へ導かれる。時系列が前後し不確か、アンソニーと娘アンの会話のつじつまが合わないなど、情況の変化が認知症に罹っているアンソニーの視点であることが分かってくる。
認知症を患う愛する家族が予測できない言動を行ったり、娘や息子が親身に介護しているのに名前を忘れられたり見ず知らずの他人のように応対されるとき、家族は言いようのない寂しさに襲われ、心が折れそうになることだろう。本作でも、アンソニーが、新しい介護人ローラに投薬するとき言うことをきかせようとする対応に突然激昂し、「私は子どもではない。私は非常に知的な人間だ」とエンジニアだった自尊心を主張するシークエンスが語られる。認知症は誰もがかかりに得る。本人と身近な家族の情況がリアルに描かれていくなかで、アンソニーがたどり着くラストシークエンスに人間の尊厳のシンプルな姿が胸に焼き付く。認知症の身内の介護と家族として一人の人間としての幸せを求める生き方とをどのように折り合わせることができるのだろうか。悩んだ末のアンの決意した表情が観る者に問い掛けている。それは、聖書をとおして神への信仰に生きている人たちにも簡単な問いではない。ただ、葉が落ちるように記憶が失われていき自分の心の中の声しか聞こえなくなっていく存在者になっても。また、認知症の身内や知人との関りについても、人間は愛され、愛する存在なのだということを本作は映画らしいアートな手法で謡っている。それは、聖書に語られているキリストを介して隣り人を愛することに通じるメッセージのようで心潤おされる。【遠山清一】
監督:フロリアン・ゼレール 2020年/イギリス=フランス/97分/英語/映倫:G/原題:The Father 配給:ショウゲート 2021年5月14日[金]よりTOHOシネマズ シャンテほか全国公開。=新型コロナウィルス感染症対策緊急事態宣言の延長・追加発令地域などでの休館および上映館情報は公式ウェブサイト「Theaters」欄等で確認願います=
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*AWARD*
2021年:第78回ゴールデン・グローブ賞作品賞(ドラマ部門)・主演男優賞(ドラマ部門:アンソニー・ホプキンス)・助演女優賞(オリヴィア・コールマン)・脚本賞・編集賞ノミネート。英国アカデミー賞主演男優賞・脚色賞受賞、作品賞・編集賞ノミネート。第93回アカデミー賞主演男優賞(アンソニー・ホプキンス)・脚色賞受賞ほか多数。