【連載】私の3.11~10年目の証し 仙台から陸前高田へ 第四部仙台での一週間④
仙台から陸前高田へ 私の3.11~10年目の証し 第四部仙台での一週間④
写真=沿岸からの7,8キロ付近でも街は泥と瓦礫にあふれていた。
写真提供=門谷信愛希
東日本大震災発生時、学生だった私(記者)は、当時所属していた仙台福音自由教会(以下仙台教会)の震災支援活動に合流した。【高橋良知】
前回まで
東日本大震災発生時、学生だった私(記者)は、当時所属していた仙台福音自由教会(以下仙台教会)の震災支援活動に合流した。【高橋良知】
§ §
2011年3月21日
夜中、関西・中部合同のボランティア第一陣が仙台に到着した。
§ §
当時名古屋市の神学校に在学中だった村井義信さん(現名古屋福音自由教会協力伝道師)は、服部真光さん(当時名古屋西福音自由教会牧師・日本福音自由教会協議会会長)とともに、3月11日に神学校の卒業式の場で震災の対応を話し合った。
教会の教育館で活動していたNPO福祉作業所で事務局長をし、服部さんの牧会を支えていた。中部地区が同協議会の救援対策本部となり、物資集めや救援隊派遣準備に奔走した。
教育館一階フロアは物資であふれた。物資は同教会や近隣の教会、地域の住民、日本国際飢餓対策機構(ハンガーゼロ)のつながりで企業からも集まったほか、米国、カナダ、アジアの福音自由教会からも空輸で送られた。マイクロバスやトラックも提供を受けた。服部さんは早速東北へ出かけたい思いもあったが責任者として本部に止まった。第一陣は村井さんがリーダーとなり出発。京都などから数人が合流し、10時間かけて仙台に向かった。
兵庫県尼崎市のクライスト・コミュニティー・チャーチ(武庫之荘福音自由教会)牧師の大橋謙一さんは、牧師2年目で阪神淡路大震災を経験した。その後も、災害が起こるたびに現地の牧師に連絡を入れ、駆け付けた。「まず自分の目で確かめ、そこから考えていくというスタンス。現地に行くと想像していたものと違うことがあります」。同協議会対策本部では、関西方面でのボランティア窓口となった。自身も第一陣に続いて仙台へ向かう。
3月22日
デボーション誌「マナ」の個所はユダ3~8、20~21節。偽信者への裁きが語られる。混乱の中で信仰の土台を確認させる。
「神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい」(21節、新改訳第三版)。
仙台教会では、近隣に物資を分ける部隊、物資配布所として教会に待機する部隊、物資が窮乏していると予想される三陸沿岸方面へ行く部隊、の三隊に分かれて支援活動が始まった。
同教会員の広瀬志保さんは、仙台に住む友人から、「叔父が岩手県陸前高田市の福祉施設で働いている」という情報を聞いた。高台にあって施設自体は無事なようだった。仙台教会の沿岸部隊は市街中心部が壊滅した同市をめざすことになった。
広瀬さんは3月14日に受ける予定だった東京の神学校の入学試験を、特別に24日に遠隔で実施してもらうことになっていた。試験準備はあったが、「とにかくできることをしよう」と委ねるような思いで、目の前で進行する支援活動に参加した。
物資を収納して、教会堂前で輪になって祈り、ボランティア9人、教会員5人でマイクロバスに乗り込んだ。各地からのボランティアとは、教会の様子や個人の証しを話し合ったり、賛美を歌うなどで時間を過ごしていたかと思う。
東北自動車道はがたがた揺れ、一瞬バスが宙に浮くこともあった。約2時間で岩手県一関に着き、さらに沿岸への山道を2時間うねうねと走った。携帯電話の電波も届かなくなった。集落が見え始め、沿岸から7、8キロ地点で、街はすでに泥にまみれていた。
「…線路沿いの道を行った。いく筋かの煙が見えたかと思うと、逆さまになった自動車の姿が目に飛び込んできた。アメのようにぐにゃぐにゃになった鉄骨、屋根だけ残った家、ちぎれた木材。見わたす限りが残骸だった…」(クリスチャン新聞2011年4月10日号)
「うわー(津波は)ここまで来たんだ」「これは逃げられない」「家が」「線路が、鉄橋が落ちてる」。壊滅した街の様子に、バス車内から次々と声が上がった。
「およそ一キロメートル先、右折です」。カーナビケーションが表示する建物や施設は跡形も無い。道路もがれきの隙間にいく筋かあるのみだ。無事目的地にたどり着けるか不安だった。(つづく)
連載各部のリンク
第一部 3組4人にインタビュー(全8回 1月3・10合併号から3月14日号)
第二部 震災で主に出会った (全4回 3月21日号から4月11日号)
第三部 いわきでの一週間 (全16回 4月25日号から8月22日号)