寄稿・稲垣久和(東京基督教大学名誉教授)

稲垣氏

 

自由・民主主義・人権の普遍性

 

コロナ禍と侵攻で 改憲推進に拍車

 

1947年施行の日本国憲法が、近年の内外の情勢変化からいよいよ初の改憲の時期に入る可能性が強まった。戦後レジームからの脱却なるものを信念とした自民党タカ派の安倍政権が、ハト派の岸田政権に交代して一安心。こう思った矢先に、いや交代したからか、逆に、野党も改憲に対してハードルを下げてきた。

2012年の自民党改憲草案のような国民主権をも危うくする大幅な改憲はあり得ないにしても、2点を推進する可能性がある。コロナ禍を経験してこれに便乗した緊急事態条項の導入、そして、ロシアの一方的なウクライナ侵攻と野蛮な戦闘行為をきっかけににわかに高まる国民の防衛意識、これをてこにした軍事増強の項目。憲法9条への自衛隊明記が当面の課題になろう。

昨今の国際情勢の劇変下で、国民は立憲主義を堅持しつつ、憲法改正問題についてきちんと議論をすべき時代に突入した。立憲主義とは国家権力を抑制するための憲法体制という意味である(拙著『改憲問題とキリスト教』教文館、2014年)。

憲法は法律で対処できることや道徳的項目は書きこまないのが通例だ。それでも、国の方向性や基本的形だけは記すべきである。‶戦力〟のためではなく専守防衛のための自衛隊が集団的自衛権を限定的でも行使できるということになれば、それは現実的には米軍の指揮下で″戦力〟として機能することを意味する。

戦後日本で憲法9条があったゆえに、まがりなりにも平和を享受できた、これはまぎれもない現実である。しかし、その反面、安保条約に規定された日米地位協定という不平等な協定の下で、沖縄のみならず本土の米軍基地近辺と空の日本国の主権はなきに等しい。単に9条に自衛隊という文字を入れるかどうかという問題ではなく、これら一連の問題群への本格的な議論が立憲主義擁護のためにも必要となってきたのである。

 

 「東方」の「教会と国家」から教訓

 

しかし、筆者には日本国民が立憲主義擁護のための公共哲学を持っているとは思えない。だからといって立憲主義が、聖書信仰から自動的に出てくるというものでもない。ある神学的伝統に導かれて出てくるのである。今回のロシアのウクライナ侵攻の惨状と悲劇の教訓から大雑把に説明してみたい。

3月下旬にプーチン大統領が「友のために命を棄てること、これにまさる愛はない」(ヨハネ15章13節参照)という聖句を引用して、ロシア兵の犠牲の戦死を正当化した、こういうニュースが流れたことに気づかれた方も多いと思う。こういった聖句を平然と引用するロシアの権力者やそれに納得してしまう国民の背景について、まずはキリスト教の歴史から知っておくことが重要であろう。

実はロシアやウクライナ、この地域はギリシャ正教、正確に言うと東方正教会が背景にある地域である。東方正教会の歴史というのは同じ聖書を聖典としながら西方に属する私たちのプロテスタントとはかなり異なった歴史をたどった。

ローマ帝国内で迫害されていたキリスト教は313年に公認された。それを行ったコンスタンチヌスⅠ世の時代にローマ帝国の首都はローマからコンスタンチノープル(今のトルコの首都イースタンブール)に移された。西側のローマ帝国はやがて476年に北方からのゲルマン民族によって滅ぼされてしまう。残された東ローマ(ビザンチン)帝国内のキリスト教会はたえず国家と一体化したまま、その後の帝国内の国家の離合集散とともに分岐していく。

連日ニュースに出てくるキエフ(キーウ)という町だが、歴史上でキエフという町の名が登場するのは882年でキエフ公国という一種の王国が立てられ、宗教的には東ローマ帝国のキリスト教つまり東方正教会に属した。しかしモスクワという町が歴史に登場するのはずっと後でモスクワ公国なるものができるのは14世紀になってからである。

こういう歴史解釈の確執が国家にあるのみならず、コンスタンチンノープル総主教庁がロシア正教会からのウクライナ正教会の独立を承認していてもロシア正教会はこれを認めない。宗教は国民性の中枢にあり愛国心を駆り立て戦争を正当化してしまう危険性を持つ(プーチンの戦争続行への支持率の高さを見よ)。

 

 「改革」の経験

 

ただ私たちとして注意しなければならないのは、東方正教会のキリスト教伝統が西方教会の伝統に比べて相当に聖書やイエス・キリストの見方が違うということだ。

最大の違いは「教会と国家」との関係であり、東方には帝国ないしは国家の保護なくしてキリスト教会がないという発想が強い。それに対して宗教改革や市民革命を経験した西方はいわゆる「教会と国家の分離」(政教分離)、または「信教の自由」という考え方が出てきた。

自由と民主主義ないしは人権という概念そのものは、明らかに西方の神学的伝統から出てきた。立憲主義はその成果である。にもかかわらず、これが普遍性をもつというのが筆者の考えだが、日本的伝統にそれが理解できるかどうか、むしろこれが最大の問題である。

クリスチャン新聞web版掲載記事)

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