【阪神淡路大震災30年③】生き残った者として痛みを抱え生きてきた 日本福音同盟総主事 岩上敬人
1995年1月17日から30年が経ちました。阪神淡路大震災から生き残った者としてこれまで生きてきたのだと実感しています。あの日、私は神学校を卒業して1年目の26歳の駆け出しの牧師で、神戸市長田区にあるインマヌエル神戸教会の副牧師として奉仕をしていました。神戸教会は私の出身教会であり、祖父母と両親が牧会をしていました。1・17に私の周りで起こった出来事は脳裏に刻まれ、30年経った今でも臨場感をもって思い出すことができます。それと同時に、あまりにも非現実的な未曽有の出来事だったので、いまだに現実として受け止められないような感覚もあります。
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その日、朝6時から早朝祈祷会があったため、私は朝5時に起床して集会室の準備をしていました。午前5時46分、突然、爆弾が爆発したかのような衝撃とともに地震が発生しました。震度7の地震は揺れというよりも、地面が回転しているようでした。揺れが収まった後は、近くにいた祖母の安全を確認し、別室で本棚から落ちた本で動けなくなっていた祖父を助け、1階が倒壊し屋根に逃げた近所の人を助けました。夜明け前の暗闇の中、すでに近隣では火災が発生し、火柱が立っているのが見えました。住み慣れた長田の町が炎に包まれているのを見て、大変なことが起こったと実感しました。
世が明けてからは、近所の人たちと倒壊家屋の下敷きになっている人たちの安否確認と、救出作業が始まりました。教会にも多くの人たちが避難してきました。けれども火災が広がり、火の手が近づいてきたため、皆、近くの小学校へと二次避難を始めました。私も母と祖父母と二人の教会員の方と、車で近くの水族館駐車場に避難しました。炎と煙に包まれていく神戸の町を見ながら、どれだけの人が避難できたのだろうかと思い、涙が止まらなかった記憶があります。
その後の在宅避難の生活、全国の教会から届く支援物資の配布活動、避難所生活をしている教会員の方々の訪問など、目まぐるしい日々が続きました。数週間後にライフラインが回復し、ニュースを見て、初めて被害の全容を知りました。教会の近隣でも100人以上の方が亡くなっていました。その中には教会学校の生徒、家族も多く含まれていたのでした。あの日、ただ避難するだけでなく、もっと何かできたのではという後悔が今でも残っています。私自身、様々な喪失を経験し、悲嘆(グリーフ)を抱えて過ごしてきました。
こうした経験から、東日本大震災以降、日本福音同盟(JEA)援助協力委員会の働きに加わるようになりました。現在はJEA総主事として、災害支援に関わる立場で奉仕をしています。日本では毎年のように災害が発生します。私自身もそうですが、被災し、喪失を経験した人は、さまざまな形でグリーフ(悲嘆)を抱えています。私たちは日常的にグリーフケアを必要としていますが、被災された方にグリーフケアが届けられることを願いつつ、JEAで奉仕をしています。
(2025年01月05・12日号 10・11面掲載記事)