高木

高木  実(キリスト者学生会総主事)

見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(イザヤ書43章19節)

新年を迎え、今年こそ何かを期待し、何らかの変化に対する願いもあるのではないでしょうか。イザヤ43章19節は「新しい事」を神様に期待する思いを起こさせる言葉です。しかし、どのような意味においてそれを期待させる御言葉なのか?——イザヤ書の文脈を意識して学びたいと思います。

「思い出すな」「考えるな」

43章以前では、不信仰で神に立ち返らないイスラエルが捕囚のめを受けるという「裁き」が語られています。しかし43章からは「慰め」が語られ、その中で捕囚からの救出が14節で預言され、16節以降、出エジプトの奇跡とともにイスラエルを救い出した主が、まさに同じようにバビロンからも救い出して下さることに目を向けさせます。そして18節では、あの出エジプトを指して言います。

「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。」

旧約聖書全体を見ても、出エジプトを振り返り心に刻むように導かれています。しかし、それを「思い出すな」「考えるな」(18)と勧めるのは何故でしょうか? それを考えるに当って、この19節が非常に大事な鍵になっています。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。」

出エジプトと「新しい事」の間には共通点があります。しかし出エジプトの理解にとどまっていたのでは、この「新しさ」は理解できない…そんな全く比較にならないほど人の想像も予想も超えたものなのです。それは、部分的にはバビロン捕囚からの救出であり、それが44章から48章までに散りばめられ、驚くことに100年ほど後にイスラエルを解放するペルシャ王「クロス」の名まで示されています(44章28節、45章1節)。

しかし預言の理解の難しさですが、それは「クロス」による解放を指し示しながら、その先にもっと大きな解放を見据え、49章以下に「しもべの歌」として示されています。そこには明らかに「クロス」とは違う姿が描かれ、その「新しさ」が「しもべ」の姿として描かれます。

想像超える「苦難のしもべ」

特に「しもべの歌」として有名なのが53章です。栄光のお方(52章13節)であるにも関わらず、蔑まれた姿をけ出す「苦難のしもべ」が、4節以下で罪の身代わりとして示されます。本来、私たちが受ける「懲らしめ」(53章5節)をその身に受け、それ故に私たちは赦されたと言います。身代わりの動物を献げることは、イスラエルにとっては全く「新しい事」でも珍しいことでもありません。その犠牲が「しもべ」と呼ばれる救い主ご自身であるということ、しかも十字架で苦しまれた私たちの主イエスご自身なのです。三位一体の御子なるご自身が、人の救いのために十字架で苦しむ…これは全く驚くべきことで、人の理解を遥かに越え、想像も及ばない「新しい事」なのです。

「未だ起っていない」ところにいる人々へ

この「新しい事」は、イザヤが語ったとき「今、もうそれが起ころうとして」おり、救い主の到来が刻々と近づき、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとして」いました(ヨハネ1章9節)。しかし、今に生きる私たちにとっては、今、もうそれは「すでに起こったこと」であり、この御言葉から聴くべきことは、もはやないのでしょうか。そんなことはありません。

まだクリスチャンでない方々には、この「新しい事」は未だ起こっていないと言えるでしょう。今年こそ、この十字架による赦しが「新しい事」として起こるように…。

そして、ご家族がまだクリスチャンではない方々は、ご家族の上に今年こそ「新しい事」が起こるように、とりなし祈り求め続けましょう。

クリスチャンである私たちには、この「新しい事」が幸いにして実現しています。しかし、その恵みは一度知ったら、知り尽くし得るようなものではないはずです。その恵みにもっと驚き、与えられている幸いを、今、新たに知った…そんな新鮮さを伴う福音理解が豊かに与えられますように…。

クリスチャン新聞1月3/10日合併号から

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