映画「沈黙-サイレンス-」--遠藤文学の“転びの者”にも寄り添う“弱者の神”を現代に問う
遠藤周作の小説『沈黙』(1966年刊)が発刊されて50年、アメリカ映画界の重鎮マーティン・スコセッシ監督による映画「沈黙?サイレンス?」が1月21日より全国ロードショー公開される。M・スコセッシ監督は、イエス・キリストの人間としての苦しみを新解釈で描いた映画「最後の誘惑」(88年製作)を撮影していた時期に遠藤周作の『沈黙』と出合った。幾度か製作開始を宣言したスコセッシ監督だが、さまざまな問題と状況の変化で28年間我慢強く取り組んできて完成させた渾身の作品。
かつて篠田正浩監督よって映画化された「沈黙 SILENCE」(71年製作)では、原作者の遠藤周作が脚本に参加し、ロドリゴが“転ぶ”心理描写に手を加えて原作とは異なる脚色の作品に仕上げられた。スコセッシ監督による本作は、原作の構成、ストーリー展開、時代考証などを丹念に調べ、17世紀中期のキリシタン迫害の情景を丁寧に描写して遠藤文学が到達した“弱者の神”“同行するイエス”の世界をみごとに映像化している。
信仰を導く者の魂を甚振る
キリシタン拷問の凄まじさ
1637年、ロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)と同僚のガルペ神父(アダム・ドライバー)はマカオにいた。20数年間日本で宣教し、地区長という最高責任者を務めていたクロストヴァン・フェレイラ神父(リーアム・ニーソ)が、捕縛され、拷問を受けた末に棄教したとの報告を受けた二人。神学校での自分たちの師であり堅固な信仰者として尊敬するフェレイラ神父の棄教をにわかに信じることができない二人は、厳しいキリシタン迫害の日本へ渡りフェレイラ神父を探し出す許可を受けに来ていた。
漂流してマカオに保護されていた日本人漁師キチジロー(窪塚洋介)を道中案内にして、ロドリゴとガルペは九州のトモギ村に上陸した。そこの村人たちは、厳しい弾圧のなかで息をひそめて生き延びている隠れキリシタンだった。キチジローも別の村で洗礼を受けたキリシタンだったが、家族ともども捕縛されキチジローだけが踏み絵を踏んだ“転び”の者だった。トモギ村の者たちは、村から離れた掘立小屋にロドリゴとガルぺを匿うと、毎朝密かに集まり、ミサを捧げ、村人たちは告悔(コンヒサン)を受け、祈り、教え、幼児洗礼を受けるキリシタン信仰の安らぎがよみがえった。
だがある日、パードレらが匿われている噂を聞きつけた、長崎奉行・井上筑後守(イッセー尾形)の一行が村を訪れて来て、厳しい詮議が始まる。かつて洗礼を受けたキリシタンだった井上筑後守は、キリシタンの行動と心理を熟知している。狡猾な策を弄して隠れキリシタンを検挙し、踏み絵を踏ませて“転び”へと誘導していく…。
キチジローに裏切られて捕縛されたロドリゴは、井上筑後守と通辞(浅野忠信)の老獪な詮議とキリシタンへの拷問を見せつけられ、キリシタン信徒たちが拷問の苦しみに耐えきれずに難度も踏み絵を踏んで転んでも、ロドリゴが転ばない限りキリシタンを処刑していく。目の前で信徒が処刑されていく苦悶に苛まれるロドリゴは、長崎の寺で通辞立会いのもとフェレイラと対面できた。沢野忠庵と名付けられたフェレイラは、天文学や医学を教える傍ら、キリスタンを“転び”へと導く伴天連審問の教書を書いている。フェレイラとロドリゴの論議がはじまる…。
棄教と“転び”の違いを
真摯に捉える脚色・演出
丁寧な時代考証と江戸時代の空気感漂うロケーション。日本人俳優たちの立ち振る舞いからも江戸時代のキリスタン弾圧の厳しさと信仰に殉じても救いを求める情念がひたひたと伝わってくる。苦しめられる信仰者たちに神はなぜ沈黙するのか。踏み絵を踏み、“転び”キリシタンとなった、信仰を堅持せず殉教できなかった“弱者”にキリストはどのように接しているのか。ロドリゴのラストシーンに、スコセッシ監督の想いが一つの工夫を形にしているようで印象深い。
現代の日本では、隠れキリスタンを強いられることはない。だが、重苦しく暗いなにかが覆いかぶさってくるような空気感のなかでクリスチャンは自由に信仰と思想を語れる情況にあるのだろうか。海外でもISや極端な原理主義集団は、テロ活動と暴力によって自らの教義と価値観を強要していく。スコセッシ監督は、原作が語る“弱者の神”“同行するイエス”について神の“沈黙”と“転び”を真摯に描くことで現代の人々に問いかけている。 【遠山清一】
監督マーティン・スコセッシ 2016年/アメリカ/161分/原題:Silence 配給:KADOKAWA 2017年1月21日(土)より全国ロードショー。
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