ルカの福音書は、空っぽになった墓と、天使たちによる「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」との言葉を通して主の復活を伝えていますが、その直後に、一つの不思議な出来事を伝えています。「エマオへの道」(ルカ24章13〜35節)と呼ばれる場面です。
「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた」(13、14節)と始まっていますように、彼らはエルサレムから離れて行きます。彼らは希望を失った人たちでした。イエスさまが死んでしまったからです。もうキリストの弟子としてエルサレムに留まる理由もない…。
このように、彼らの絶望からこの場面は始まっていますが、この場面の最後には、なんと彼らは再びエルサレムにいるのです。再びキリストの弟子としてそこにいるのです。一体何が、彼らをそうさせたのでしょうか。

主が目を開かれる時

彼らが話していた「いっさいの出来事」とは、主の十字架の出来事です。「なぜ、私たちの大切なイエスさまが、十字架につけられなければならなかったのか…」という議論もあったでしょう。あるいは「私たちは何故、イエスさまが捕らえられた時、逃げ出してしまったのか…」という反省もあったでしょう。そのように論じあっている彼らに、復活の主が近づいてきたのです。難波信義
「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」(16節)。さらに、「それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった」(31節)とも伝えられています。つまり、共に歩まれる復活のキリストは、目が開かれて初めて認識される、ということです。これは非常に象徴的な場面だと思います。目が遮られて分からないけれども、復活の主は共にいてくださるのです。この弟子たちのように、主を捨てて、全く関係のない方に向かおうとしている、そういう者にも主は共にいてくださるのです。そして私たちは時々、目が開かれて、後からそれが分かるのです。「あぁ、あの絶望の時に、イエスさまが共にいてくださった」「あぁ、あの深い悲しみのどん底に、イエスさまが一緒に居てくださった」と。
それだけではありません。イエスさまは「気付きの体験」をも私たちに示してくださいます。「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された」(30節)。まるで家の主人であるかのように振る舞う主が、パンを取り、祝福してそれを裂き、渡されたのです。これによって、弟子たちの目が開かれました。
しかし実に奇妙な表現です。「目が開かれ、…見えるようになった」ではなく「目が開かれ、…見えなくなった」というのです。しかし、この表現もまた象徴的です。結局、キリストが目に見えるか見えないかは大して重要ではない、ということを示しているように思います。そして本当に大切なことは、今まで共にイエスさまが歩んでくださったし、これからも共に歩んでくださるのだと確信することなのです。

復活のいのちに生きる

この場面の弟子たちも、この確信に立ったからこそ言ったのです。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」(32節)。これが「気付きの体験」です。失望していた彼らの内に、命の火が灯ったのです。死んでいたような彼らの心の内に、命の火が灯ったのです。だから彼らはエルサレムに戻って行ったのです。
ここには、今日もなお教会の内において起こっている事、起こり得る事が示されています。すなわち、復活のキリストの働きによって私たちには喜びが与えられ、それゆえの賛美がわき起こるのです。復活のキリストの働きによって、悲しみと失望によって沈んだ心に、命の炎が燃えあがるのです。そしてそれは、「見える」ということよりも、「主が共にいる」ということを信じることから始まるのです。キリストが私たちと共に、その人生の道のりを歩んでくださる、そのことについて目が開かれ、信じられるようになることが重要なのです。
熊本を襲った地震から1年が過ぎました。いまだ困難な生活を強いられている方々、先の見通しが立たない方々がたくさんおられます。「復興」という言葉の遠さ、重さを感じずにはいられません。しかしこの1年の歩みを振り返るとき、そこにさまざまな「気付きの体験」があったことを、感謝を持って、一つひとつ思い起こしています。個人でも教会でも、信仰の友とのつながりを強く実感し、励まされ支えられ、そうやって絶望のふちで涙する私たちに、何度も命の炎が燃え上がりました。その中心に復活の主が立っていてくださったから、喜びが与えられ、賛美がわき起こったのです。
大災害を前に「見えない」神に困惑し「ここに神はいるのか」と問う人がいます。しかし復活の主につながる私たちは、「見える」ということよりも、「主が共にいる」ということを確信し、力強く歩み出すのです。

4月16日号紙面