羽鳥明氏逝去 放送伝道のパイオニア 「私は福音を恥としない」

PBA1-メガネの先生

戦後の放送伝道のパイオニアで、太平洋放送協会(PBA)理事長、ワールド・ビジョン・ジャパン(WVJ)理事長を務めた羽鳥明氏が4月10日午後3時25分、96年の生涯を閉じた。1954年からPBAに加わり、ラジオ番組「世の光」でメッセージを語り続けた。67年のビリー・グラハム伝道大会で超教派の働きをはじめとして、日本伝道のネットワーク作りに貢献した。信仰文書を通しても福音を語り続け、その書物は、いのちのことば社発行のものだけでも50万部を超えた。

 羽鳥氏の福音との出会いは、1936年16歳の時の前橋中学時代に訪れる。日本が軍国主義の道を突き進んでいた時代、ある日学校の軍事教練の時間、担当の陸軍中佐が「お前たちのうちに、ヤソはおるか」と問うた。1人の同級生が手を挙げ「私を救ってくれたイエス・キリストを信じています」。その凛とした態度に惹かれた羽鳥青年は、その同級生に誘われて教会を訪ねた。

 教会では、イギリスから来た婦人宣教師バーネットさんが、ローマ書10章から「あなたは罪人だと思いますか」「イエスを救い主として受け入れませんか」と語ってくれたが、自分の中の罪を認めつつも、羽鳥氏は「わかるような気がします」としか答えられなかった。しかし、会話の最後の祈りの時に、目を開けてみると、自分のために涙をぼろぼろ流しながら祈っているバーネットさんの姿を見、「ああ、この人は本当のことを言っている」と、信仰を決心した。

 東京高等師範学校、東京文理科大学卒業後、44年から東京女子高等師範学校などで教鞭をとった。戦後の混乱期の日本で、教師としての安定した生活が保証されていたが、信仰者としてこれでいいのか、という思いが羽鳥氏にはあった。腹膜炎を患い入院した時に1つの聖書の言葉が示され、自分が罪に打ち勝っていないこと、人に伝道できていないことに気づかされた羽鳥氏は、その夜神の前に悔い改めて献身を決意、退院後すぐに辞表を提出する。

 その後前橋で神学校を開校していたバーネットさんの元に駆けつけた。前触れもない訪れにさぞ驚くだろうとの予想に反し、「あなたがこうやって帰ってくる日を信じて祈っていました」と、涙を流して迎えてくれた。そこでの学びは1年あまり、50年にはアメリカのフラー神学校で学ぶため、横浜から船で渡米した。費用のすべては、バーネットさんが負担してくれた。いずれ自分が最後に英国に帰国するために蓄えていたものだった。しかし乗船3日前に、上野でパスポートと船の切符とすべてのドルを盗まれた。奇跡的にパスポートと船の切符は再発行され船に乗ったが、無一文であった。

 アメリカでは神学校で学びながら、日本人の「庭師」としてアルバイトをした。1日の報酬が、日本なら1か月分の給料に相当するほどだった。渡米して1年ほどたった頃に、日本から届いたバーネットさんの訃報に接する。「早く日本に帰って来て、イエス様を日本の人に伝えてください」と言っていたバーネットさんの言葉を思い出した羽鳥氏は、庭師の仕事を辞め、いちご畑で働き始め、そこで多く雇われている、英語のわからない日系一世の農民たちへの伝道を始める。そこで行った伝道集会がきっかけで51年、日本語の福音番組「ジャパニーズ・ゴスペル・アワー」でメッセージを語るようになった。

  「世の光」を証し続けて

 その頃日本でも、「暗き世の光」(「世の光」の前身)という福音番組がスタートしていた。54年に帰国した羽鳥氏は協力を求められPBAに加わり、翌年からラジオ牧師として「世の光」でメッセージを語り始めた。

 67年の、戦後最大の超教派伝道プログラムとも言える、ビリー・グラハム伝道大会では副実行委員長に選ばれ、通訳も担当。放送伝道という超教派の活動に携わる者として、日本伝道の課題は教会間の一致にあると考え、日本伝道のネットワーク作りを重荷としていた羽鳥氏にとって、この大会の成功は大きな試金石となった。

 70年には総動員伝道のプロジェクトに参画。「一人ひとりが生きたあかし人に」というそのスピリットは、今も全国の教会協力の中に生かされている。87年には国際的な民間援助団体であるWVJの理事長に就任。キリスト教精神に基づく世界規模の救援活動プログラムを支えて来た。その多年の功績に対し、93年には、日本福音振興会より日本福音功労賞に顕彰された。

 今も語り継がれる、74年に語られた「福音を恥としない」という説教の中で羽鳥氏は「こんな罪人の私のようなものにまで、福音を伝えよ、と神様が命令してくれたことに感激する。私たちが出て行く世界には神を待っている魂がゴロゴロいる」と語っていた。「世の光」のラジオ牧師としては、2008年まで全国100万人の聴取者に福音を語り続けた。

 50年以上にわたり、ラジオ伝道、信仰文書を通して、日本という風土に生きる人々にわかりやすく福音の魅力を、その真髄を伝え続けた。その親しみのある声と語り口は、今も私たちの脳裏に、心に刻まれている。

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葬儀は、4月17日(月)午後6時から、山崎製パン総合クリエイションセンター「飯島藤十郎社主記念LLCホール」(千葉県市川市市川3丁目23番27号)で行われる。問い合わせはTel03-3295-4921 太平洋放送協会(PBA)まで。