5月21日号紙面:聖霊運動を聖書学と教会史で考える 大坂太郎氏、青木保憲氏が講演 日本宣教フェスタ・セミナーから
混乱の中で神学化された「異言」現象
日本宣教フェスタでは、メイン会場となる大ホールでの大会と並行して、各種セミナーなどが、2日間にわたり行われた。セミナー②「聖霊運動と神学」の講師は大坂太郎(アッセンブリー・ベテルキリスト教会主任牧師・福音主義神学会東部部会理事長)、青木保憲(大阪城東福音教会主任牧師)の2氏。
講演のはじめにあたり大坂氏は「静的なイメージを持たれることが多い『神学』とダイナミックな『聖霊運動』は相容れないものに思われるが、そもそも神学とは『生きて働く』神をこれまた生き、動く存在である人間が流れる時の中で探求する営みなのだから、動的なものにならざるを得ない」と主張し、その実例として新約聖書学と教会史の複数の視座から「異言」の神学化の変遷を取り上げた。
まず大坂氏はルカ文書の歴史性に注目し、異言は初代教会の中で実際に起こった「出来事」の一つであり、それは聖霊に満たされた弟子たちが未習得の外国語を語り、未信者に「神の大きなみわざ」を伝えたものだと論じ、ルカ−使徒においてこの出来事は終末論的意義(ヨエルの預言の成就)、救済論的意義(異邦人の救いのしるし)、教会論的意義(聖霊の賜物の普遍化)の3つの神学的意義を持っていたと述べた。
異言現象はまた初代教会において通常的な現象であったが、コリント教会においてその賜物の使用に際して看過できない混乱が生じた。その際パウロは異言について語り、神学化した。このパウロの異言の神学について新約学者のゴードン・フィーは次のようにまとめている。①御霊によって促された発話②必ずしも実際の言語に限定されない③基本的に話者、聴者ともに理解不能であり会衆に理解されるためには「解き明かし」が必要、④で制御不能な状態で語られるものではない、⑤神に向かって語られる奥義であり内容は祈り、歌、祝福と賛美、および感謝、⑥礼拝の秩序を乱すという意味では一定の制限が課せられ、預言が推奨される、⑦祈りの賜物の一つであり、パウロもまたその実践者。このように初代教会の生起と発展に伴って起こった異言現象には複数の神学的意味が多様なコンテクストの中で付与されたことが指摘された。
体験を感動にとどめず豊かに深めて
次にこの新約聖書の中に書かれた複数の神学的意義を歴代の教会がどう受け止めたのかについて、特に初期ペンテコステ運動(20世紀初頭)に至る歴史的過程を青木氏が概観した。
−18世紀のイギリスでジョン・ウェスレーが「聖化」の概念を展開する中から、聖霊のバプテスマを完全聖化達成のための「手段」とみなす人たちが出て来たが、聖霊のバプテスマを受けたとする確たる「しるし」はなかった。
そのような中で米国カンザス州トピカにあるベテル聖書学校のチャールズ・パーハム校長とその生徒たちは、1901年1月1日に聖霊のバプテスマを受けたと語った。パーハムはまたこれを「真正異言(ゼノラリア・未習得の外国語を語る現象)」であると宣言し、「異言を語ることこそが聖霊のバプテスマを受けた証拠(evidence)である」と主張した。続いてパーハムから教えを受けた黒人の伝道師ウィリアム・シーモアにより、06年ロサンゼルスのアズサ通りでリバイバルが起き、2年間に50万人が全世界から訪れたと言われている。そのような運動の中、「真正異言」を与えられたと考えた人々はその「宣教のための言語の賜物」を携え、実際に海外宣教に出ていくのだが現地では通じないという現状が報告される。そのような報告を受けたシーモアは「真正異言の教理は、魔術や降霊術への扉を開くものでしかない。異言は聖霊のバプテスマに伴う一つのしるし(a sign)でしかない」と考えを改めるに至った。しかしたとえ異言が現地で通じなくても、宣教の情熱を抱いて出て行った宣教師たちはその働きを放棄せず、継続した。こうした積極的な成果報告は教会を強め、次世代の宣教師候補を育成した。結果、現在全世界72億の人口に対し、ペンテコステ派に属する信徒は6億人になっている−
青木氏は「初期ペンテコステ運動が生み出したものは、異言によって神に覚えられている確証、異言によって世の終わりの時代に重要な役割を与えられているという確信であり、その役割とはほかならぬ福音宣教である。ここから、初期ペンテコステ運動とは、神の計画に招かれたことを、異言を通して人々に確信させた『体感的神学運動』ということができる」と総括した。
引き続いて大坂氏が近年の異言理解の変遷について概観した。
−60年代以降、異言現象は福音派からの批判にさらされた。特に録音機器を用いた言語学的解析の結果、ほとんどの異言は「言語でない」ことが証明され、同時に異言を異常心理学の枠組みでとらえることにより、異言という行為自体が強く批判された。しかし異言を「言語ではない」ということをもって無意味であると考えるのは近代合理主義的なパラダイムに依拠している。というのも言語化には常に限界があり、言葉では語りつくせないものがあることは動かせない事実なのである。ポストモダンの時代に入り「いわく言い難いもの」「奥義」といったものがもう一度脚光を浴びるようになった。
80年代以降、主流派の衰微と福音派の停滞の中で教会成長を続けるペンテコステ・カリスマ派の動向に注目が集まる中、これら聖霊運動に属するグループを特徴づける実践としての「異言」現象に新しい光が投げかけられるようになった。それは「聖霊のバプテスマのしるし」としての異言理解から「祈りの賜物」としての異言理解へのシフトであり、その鍵句となったのは「どのように祈ったらよいかわからない」時の御霊の深い「うめき」(ローマ8・26)であった。異言は第一義的に個人の建徳をもたらす祈りの言語であり、直接的に宣教と結びつくものではないという理解である−
以上を踏まえ大坂氏は「全体の神学の中の本当に小さな部分である異言現象一つをとってみてもこれだけの動きと解釈の幅があるのだから、神学がダイナミックな営みであることは自明であり、聖霊運動に属するものが神学を毛嫌いする必要はまったくない」と結んだ。
最後に青木氏は神学の動的性格をよく理解し、「最初に体験したことの感動にとどまり、それを金科玉条のようにして、不可侵・不可触のものにするのは問題である。新しい歴史的文脈の中で起こってくる諸問題に対し、聖書を解釈し既存の神学の枠組みを点検、修正することにより、私たちの神理解はより深まり、豊かになっていく」と「神学すること」の意味を語った。
日本宣教フェスタの多様なセミナー
日本宣教フェスタでは、「海外宣教事情フォーラム」「穏やかな老後と死」「家庭・夫婦円満」「メシアニックジュー・仏教」「文化伝道・福音落語」「政治・ビジネス」「スポーツ伝道」「地方都市の教会成長」「聖書と明治維新」などをテーマとする12のセミナーと、2つの特別講演「信徒による教会活性化」「日本宣教突破口」が行われた。また、ユースルームでは山川哲平(伝道隊・ハレルヤチャーチ高松牧師)、細江政人(ヒズコールチャーチ牧師)、野田詠氏(アドラムキリスト教会牧師)、富田慎悟(新宿シャローム教会牧師)、野田勝利(福音ペンテコステ・ひばりが丘バイブルチャーチ牧師)、西村希望(みどり野キリスト教会牧師)、大嶋重徳(キリスト者学生会総主事)、吉田泰貴(JBC・八尾福音教会ホープチャペ牧師)ら各氏8人がメッセンジャーとして立った。