2017年07月09日号 4・5面

2007年に出版されて以来、39か国で翻訳出版され、1800万部を売り上げた話題の小説『神の小屋』が、映画化された「アメイジング・ジャーニー〜神の小屋より〜」。主要な登場人物の一人に日本のタレントすみれさんが抜擢されたことから、日本でも、製作段階から注目が集まっている。9月からの上映に先駆けて、小説『神の小屋』のファンであり、映画も試写会で鑑賞済みの塩谷達也さん(ゴスペルシンガー。映画「神の小屋」のテーマソングもレパートリーの一つ)と、ゴスペルチャーチ東京の牧師・波多康さんにお話を伺った。

〈あらすじ〉
愛娘を奪われた主人公マック。その忌まわしき事件現場で出会った不思議な三人の人物。「彼ら」はマックの人生の真実を解き明かしていく。神はなぜ不幸を見過ごすのか。現代のヨブ記が描くゆるしと愛の物語。

——お二人が『神の小屋』を読んだきっかけと、読後の感想は?

波多 アメリカで話題になったこの本が、映画化されることになり、日本人女優のすみれさんが出演されるということを聞いたので、日本で話題になったときに対応できるよう、読んでおいたほうがいいだろうと思いました。
感想としては、僕はC・S・ルイスが大好きなんですが、この本の著者のウィリアム・ポール・ヤングもそうなんじゃないかと思う部分が幾つもありました。
人間や神、罪について、よく練られ、多方面から描きつつ、それを観念論的にではなく、体験的に味わわせてくれる作品でしたね。これはまさに『ナルニア国物語』のようでした。読み終わったあと、それが現実の生活の中に息づくような感じで、私の中で三位一体の神というものがより深くイメージできるようになりました。
塩谷 僕は、数年前に韓国ツアーに行った際、あちらの教会の牧師さんが、キリスト教書店に連れて行ってくださって、その時、洋書コーナーに原書が平積みされていたんです。表紙とコピーに惹かれて買って、帰りの飛行機で読み始めたらおもしろくて、家に帰って一気に読みました。僕は本を読んで泣くっていうことはあまりなかったんですけど、これは読みながら涙が出てきた。DSC_9075_塩屋氏2
マックと自分が重なるところもあったし、読みながら神様との時間を過ごすような感じで、普段、自分でもタッチできないようなところに触れてくるものがあったんです。
それ以来、ディボーションをするときにも、神様に会いに行く気持ちで聖書を読むようになったんですよ。神様に毎日出会う、その出会い方を教えてくれるような本でした。
それと同時に、この本はやっぱりアートだから僕の心に触れたんだろうなと思って、自分のやるべきことについてもインスパイアされました。神様と人との関係ってこんな感じだよっていうのを味わわせることができるところがクリスチャン・アーティストの素晴らしいところだなと思ったんです。

——三位一体の神が人の形で出てきたことについては?

波多 抵抗はありませんでしたね。当然、懐疑的な方もいらっしゃるでしょうが、でも例えばC・S・ルイスはイエスをライオンとして描きましたよね。ある意味でそれと同じですが、神を黒人のおばちゃんにしたっていうのは、最高のセンスですね。「白人のおじいちゃん」みたいなステレオタイプを打ち破りたかったっていうね。
塩谷 僕も「よくぞ」と思いましたね。まず、全能の神がどんなふうに現れるかなんて人間にはわからないし、アートをするときには何か形を決めないといけないんですよ。ライオンとか、ウサギとか黒人女性とか白人男性とか。あの作品の中でそれが黒人女性だったのは最高でしたね。
映画だと、あの黒人特有の声の感じ、相づちや笑い方が出ていたのもよかったですね。
僕は神様ってユーモアのある方だと思うんですよ。そして、センスの源。だから、雑な現れ方をするわけがないと思う。著者の意図がわかったので、それを楽しもうと思いました。

——あの作品の特に好きなシーンはどこですか?

波多 やっぱり湖を歩くシーンですかね。一度一緒に湖を歩いたあとに、今度は一人で歩こうとしたら、うまく歩けない。それで振り返ったら、イエス様がさわやかに笑って「僕と一緒だともっとうまくいくと思うよ」って言うんですよね。あのシーンが印象的でした。
「一緒ならうまくいく」というのは当たり前のことだし、そういうメッセージもよくするんですけど、それをああいうふうに描かれると、自分の中にすごくすんなり入ってきたような気がします。
神様が聖なる方だというのは、もちろん本当にそのとおりです。でも、荘厳で畏れ多い方というのが強調されるあまり、身近にいてくださる、共にいてくださるという側面がなかなか実感できないクリスチャンが多くいる。DSC_9179_波多氏2
僕はKGK(キリスト者学生会)の主事をしていた時に、よく学生に、「僕はディボーションという言葉は使いたくない。むしろ、イエス様とのティー・タイムと言う」と言っていました。また、僕が敬愛するある宣教師は、「私にとって聖書を読むのは森を散策すること。特に何もなく、たださわやかな気持ちで帰ってくることもあれば、とても素敵な楓の葉やドングリを見つけて帰ってくることもある」と。
イエス様が共にいてくださるというのは、そういうことだと思うんです。さわやかで気持ちがよくて、リラックスできて、自分らしくいられて、もっとそこにいたいと思う。でも同時に、その方を軽く扱う思いなんて一切起きない。つまり、そこには畏怖の思いもあるんです。あの作品、あのシーンは、それを見事に描いていたと思います。
塩谷 気が合うな。僕もあのシーンなんですよ。波多さんが説明してくださったとおりですよね。「一緒にいてくれる」って一言で言うけど、どういう感じていてくれるのかっていうことを描いている。
人って、神様と一緒に何かしても、すぐに忘れて次はまた一人でやろうとするじゃないですか。その時に、ジーザスは別に無理に止めないけど、こちらが勝手にやって「やべ!」ってなっていると「一緒のほうがうまくいくんだよね」ってさりげなく言ってくれるあの距離感とか、いいですね。
波多 これはキリスト教を描いた作品ではなくて、もっと個人的な、「神様と時間を過ごす」ことについての話ですよね。聖書の中でも、イエス様の隣で十字架にかかっていた強盗が「今日、僕のことを思い出してください」って言った時、イエス様は「今晩、一緒にいるよ」って言いましたよね。そんな言い方では書いてありませんけど、個人的にはそんな感じだったんじゃないかと思います。
とにかく、「では、まず学びから始めよう」とか「入会手続きをとりなさい」とか言いませんでしたよね。洗礼だって授けられないような状況で。でもイエス様は「うん、一緒にいるよ」って。枠組みにも制度にも関係なく、受容してくださったんですよね。DSC_9119_塩屋氏波多氏2
ところがこちらは、そういうイエス様の前で背広を着て面接でも受けるかのようなつもりで聖書を開いてしまうようなことがある。すぐに「ねばならない」的な制度の中に入り込もうとする僕らに対して、少しずつその枠を取っ払おうとしてくださるイエス様が見事に描かれていましたね。
塩谷 僕が本当にありがたいのは、そういうふうに自分が制度にはまっちゃった時にも、イエス様が「いいよ、大丈夫。すぐに制度にはめたがるおまえのそういうところ、ちょっと笑っちゃうけど、ここにいて待っているよ」っていう感じの距離感を保っていてくれること。
僕のだめなところもわかっていてくださって、僕がすごい罪を犯したときも、自分で自分を赦せないときも、イエス様はいつものまんまの感じでぶれずにいてくれることなんです。そうすると、もう本当に、ありがたいな、この人についていきたいな、って思う。一緒に歩いていきたい、命も何もかも全部預けます、ってなる。
それは、急にいっぺんになるんじゃないですよ。イエス様と毎日湖を歩いたり、小屋や森の中で一緒に時間を過ごすことを重ねるうちに、自分のペースで学んでいくというか。僕が今生きているそういう感じが、あの作品にはすごくビビットに描かれていますね。
波多 この話をしていて思い出したみことばがあるんですが、Ⅰヨハネ1章3、4節に「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです」とありますよね。
この作品はまさに、交わりと愛と喜びについて描いた作品ですよね。

——作品の中で、気になる登場人物は?

波多 全員と言えるかもしれませんね。マックの疑問一つ一つは本当によくわかるし。それを普通の感じの俳優さん(サム・ワーシントン)が演じているのがよかったですね。イエスを演じていた方もそう。すごいイケメンとかではなく、でもとても感じがいい。すみれさんが演じたサラユーも、東洋人らしい無表情の中に表情があって、あの不思議な感じを見事に描いていらっしゃった。
塩谷 マックが裁きと向き合わせられたシーンの「英知」(小説では「ソフィア」)も印象的でしたね。演じた女優さんの凛とした美しさもよかったし。
小説には、あの女性はパパの知恵を人格化した存在だって書いてありましたよね。だから、パパはずっと黒人女性の包容力のあるトーンできてましたけど、ああいう一面も、やはりあるんだな、って。それも本当に聖書に書いてあるとおりだな、と思いました。神の小屋カバー画像

——この作品には、「神がいついかなる時も善であるということを信じられるか」というテーマもあると思うのですが、それについてはいかがですか?

塩谷 僕はそれが難しくて難しくて仕方ないから、神様を信じられなかった。自分の原初的な体験として、すごく若い頃に、「えー? 親って愛に満ちた人じゃないの? こんな感じなの?」という不信感をもつようなことがあったから、神様がいるとしても、まず善ではないでしょ、というのがあったんです。まさに、マックと同じ。
でもなんとなくゴスペルに出会ったり、クリスチャンに出会ったりして教会に行くようになりました。それで牧師に、今思っていることを神様にぶつけてごらんよ、怒ってごらんよ、って言われたから、ぶつけてみたんです。
マックにしても僕にしても、僕らはもう壊れていて、マイナスから入ってますよね。でも、神様からしたら、それが前提なんだと思うんです。おまえは、神が善だとは思えていないでしょ? みたいな。そういう頑なな感じになっている人間たちのところにイエス様が入ってきてくださったわけですよね。コッチコチに凍っている僕のハートをわかっていて、それでも敢えてきてくださる。
それで、「うん、わかるよ。わかるけど、来てごらん。聞いてごらん」というすごく手厚いケアがなかったら、僕なんか絶対神様を信じていないし、クリスチャンにもなっていなかったと思います。
マイナスから入っている人間に対して、神は三位一体ですから、ある時はパパ、ある時はジーザス、ある時はサラユーがあらゆる方法を通して働きかけてくださる。
ある時はクリスチャンの友だち、ある時はミュージック、ある時は本、あらゆるものを通して、神様が善なる方だというのを教えてもらうことが僕らの人生であって、クリスチャンとしての歩みなのかなと思います。
波多 僕は初めて讃岐うどんを食べた時、今までうどんと思って食べていたものは何だったんだろうと思うくらい感動したんです。それと同じように、神様の愛にしてもきよさにしても善にしても、神様に出会う時に、今までステレオタイプの枠組みの中で理解していたものとはまったく違うものだということを知ると思うんですね。
それらのすべては神様との関係性の中に隠されている、イエス様の中にすべての宝が隠されていると思います。だから、イエス様を知れば愛を知るし、喜びを知るし、神様が善であるということを知ることになりますよね。

——『神の小屋』については批判もあると思いますが、それについてはどう思いますか?

波多 僕は直接聞いたことはないんですが、ネットに出ていたのは「裁きがない」と言っているのはおかしい、ということと、あとはやはり、神を擬人化するのはおかしいということでしたね。
最初にそういう意見を目にして、意識しながら小説を読んだのですが、果たしてその批判は的を射ているだろうか、と思いました。
またC・S・ルイスの話になりますが、ルイスは『ナルニア国物語』に書いた内容を、最初は論理的に神学書みたいに書こうとしたんだそうです。でも、なぜそれを童話にしたかというと、理性を超えた方のことを理性で書けないから、なんだそうです。
おとぎ話なら、例えばティンカーベルが飛んでいても、誰も何も言わない。神様のことをそのまま伝えたいなら、その手法を取るしかないと思って童話にしたっていうんですね。僕は、その発想はすごいな、正しいな、と思います。
論理で書く場合は、神様のきよさ、正しさを書いた場合、それとそぐわなくなる愛について、また愛なら赦しがあるだろうということについて、一つ一つ整合性を取りながら全部書いていかなければならない。でも小説なら、「この小説のテーマは愛と交わりだよ」って言える。別に裁きの神がテーマではないんです。伝道会のメッセージでも神様の愛を中心に語って、必ずしも裁きのすべてを語らないのと同じです。
ただ、この小説の中でも、マックが殺人犯について「無罪放免するんですか」って聞いた時に、パパは「放免はしない」って言っていますよね。マックに向かって「おまえは裁く義務はない。それは私がやろう」と言っているのであって、「裁きがない」と言っているわけではないんですよ。それなりの特別な処置があることをうかがわせます。
それに、英知との場面にしても、あの対話には厳しさがありますよね。それもまさに父なる神の一部です。
ただし、明らかに神は罰を与えることを喜ぶ方ではないし、罰を与えることを目的に裁く方ではないですよね。赦しを目的に裁くんです。エゼキエル33章11節に「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ」とあるとおりですよね。
塩谷 あのシーンでパパは、犯人のことは「私に任せろ」って言うんですよね。映画のあのシーンはよかったですよね。マックがてんとう虫を握りつぶそうとしていたこぶしをすっと開くところ。
僕も自分の親父に対して憎しみを感じていた頃、それが握りしめたこぶしのイメージだったんですよ。それも、あまりにも強く握りしめて血が通わなくなって白くなってるくらいの。でも、それをいつの間にか、開けていたんですよね。だから、あのシーンは好きでしたね。
批判については、僕はあんまり耳に入れない派です(笑)。それは、どこかに齟齬があるかもしれないけど、あんなにいい作品になっているんだから、つまずきの石があるならまたいじゃえばいいのに、って思うんですよ(笑)。
僕も自分で曲を作って歌うので思うんですけど、僕の声が気に入らない人に気に入ってもらおうとしてもそれは、無理。だから、いいんですよ。もし、お気に召したらってことで。

——それは小説の「はじめに」にも、マックの友人ウィリーの言葉として次のように書いてありますね。

「最後にお断りしておきたいこととして、『成り行きでこの本を読んでみたけれども気に入らなかった』という方がいらっしゃるなら、マックはあなたに『それは申し訳なかった。でも、これはもともとあなたのために書いたものではなかったんだ』と申し上げたいそうだ。だが、本当はあなたのための本でもあるかもしれない、と私は思う」

——本日はありがとうございました。この作品が多くの方のための物語になることを願いたいと思います。