2017年08月06日号 02面

日野原先生の思い出 日野原重明・星野富弘対談『たった一度の人生だから』編集者が語る

子どもたちやお年寄りに囲まれた笑顔と、白衣がよく似合う方だった。

初めて田園調布のお宅に、緊張しながら、対談企画の打ち合わせを兼ねてご挨拶に伺った日のことがよみがえってくる。当時、著書の『生き方上手』がベストセラーとなって巻き起こった“日野原フィーバー”の余韻がまだ残っていた頃で、部屋中が祝いで贈られた花束や鉢植えの花で埋め尽くされていた。でも、その点を除いては驚くほど質素なたたずまいに映った。

 先生はというか、聖路加国際病院の院長として多忙を極める中で、音楽、教育、スポーツ、あらゆることに造詣が深く、積極的に関わっておられた。その日も分刻みのスケジュールに追われてお忙しそうだったが、合間を縫って私たちのために時間を設けてくださった。短い時間の中で、対談相手について知っておきたいこととか、企画のねらいとかを矢継ぎ早に質問してこられた。頭の回転がよく、切り替えの速い方なんだと今更ながら思ったことだった。
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写真=本紙2006年5月14日号から

 2006年4月22日、晴天で気持ちのよい朝だった。この日、太平洋放送協会といのちのことば社のコラボで、日野原先生と星野富弘氏の対談が実現した。日野原先生は95歳を迎えられていた。公開収録をする関係もあって、会場は群馬県みどり市(旧東村)の童謡ふるさと館という所で行うことになった。先生には負担をかけて申し訳なかったが、対談に先立って同じみどり市にある、リニューアルしたばかりの富弘美術館にも立ち寄っていただくことにした。都内から車で約三時間、高齢の先生が体力を消耗されるのではと心配したが、あとで秘書の方に聞いたら、「車の中では原稿書きをなさっていましたよ」と言われて仰天した。原稿執筆をこなすのは、もっぱら移動の車中でなさっていたようである。日野原先生に限っては常人の感覚でものを推し量ってはならないのだと知った。

 東京からバス3台を連ねて来たツアー客も含め、会場は400人の聴衆でいっぱいになった。対談は常に先生が星野さんをリードされるかたちで行われた。先生は星野さんへの思いやり、ユーモアとショーマンシップにあふれていた。会場は終始、爆笑とほのぼのした空気に包まれ、大成功の対談となった。後日、テレビで放映され、単行本化もされた。
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写真=『たった一度の人生だから』いのちのことば社

 その後も、数年にわたって雑誌での執筆や本の出版などで私たちの働きに関わっていただいた。たぶん、同じプロテスタントのキリスト教でも日本基督教団で信仰生活をなさってこられたので、福音派の活動や読者の人たちを新鮮に感じられたこともあるのだろう。そういう面で、従来の考え方とか常識にとらわれない自由さが先生の中にあった。未熟な私たちなので、お叱りを受けたことも一度ならずあったが、今思うと、すべては先生と接することで得た恵みであり、二度とない体験であった。その感謝をいつまでも胸に刻んでいたい。(鴻海誠=元いのちのことば社出版事業部長

「人生変わった」日航機乗っ取り事件 変わらぬ平和といのちへの思い 本紙の記事に見る足跡と言葉

スクリーンショット(2017-07-27 9.34.50) 写真=本紙1970年4月26日号から

 日野原氏は、1970年3月31日に起きた共産主義者同盟赤軍派によりハイジャック事件を「人生の転機だった」とたびたび発言していた。

 当時59歳。日本内科学会出席のために、羽田空港から福岡空港行きの「よど号」に乗っていた。

 本紙では、4月12日号が初報で、事件経過中の日野原氏の妻静子氏の「神の導きを信じています」という言葉を載せた。26日号では、日野原氏の手記を掲載した。

 「よど号」が離陸して機体が安定すると、赤軍派の若者が日本刀を持ち、北朝鮮亡命を目的に飛行機を乗っ取ったと宣言。乗客解放までの4日間、赤軍派は「やむなくば自爆する」と繰り返し語った。

 日野原氏の励みになったのは本だった。赤軍派は、携帯した本のリストを紹介し、乗客に貸すと言っていた。左翼関係の本の他、文学書があった。「ひと月位の抑留を覚悟」していた日野原氏は、5冊本のドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』を手にとった。本の扉には、ヨハネ12章24節があった。赤軍派の若者が北朝鮮に渡ったときに、この聖句をどのように読むだろうかと思いを寄せた。小説中のゾシマ長老の「お前には、イエス様がついておる…」という言葉も心に留めた。

 人質交換として山村新治郎運輸政務次官が来ることになると、前夜から赤軍派と乗客が会話する機会が増えた。赤軍派はインターナショナルな革命に参加することによってブルジョワジー日本政府を打倒すると主張していた。20代のリーダーを筆頭に17歳の高校生もいた。「若い人のこのような問題が、真剣に日本のあらゆる層によってとり上げられ、考えられなければならない」と痛感した。

 乗客の中に「人間的な触れ合い」もあった。「生命を共にしなければどちらも生きていかれないという不思議な状況において、乗客と赤軍派が人間的な心のつながりを持っていたのかもしれない」と言う。「彼らへの憎しみが日常生活に戻ると強くなるかもしれない」としつつ、「このような親を裏切り、傷つける子どもに対する親にも似た心の痛みを感じながら、将来日本における青年層に対して、もっと手がうたれなければいけない」と論じた。

 2002年には91歳で『生き方上手』が120万部を超えるベストセラーとなり、注目された。同年、映画「JESUS」の日本初劇場公開で、日野原氏は講演し、よど号ハイジャック事件後の「人生は与えられたもの」という人生観の変化を語った(本紙2002年8月18日号)。「60歳から、院長も6つの財団の理事長、会長、診察も、すべてのことがボランティアということで今日まで30年間走ってきた」と述べた。

 毎日平均5時間睡眠。6千通にもおよんだ読者からの手紙を仕事の合間に読んだ。「今日までの私の忙しさは、空襲の後、何千人もの人たちの死亡診断書を書いた時から続く」と言う。「21世紀は戦争で始まった。戦争体験をもつ75歳以上が新老人運動を起こして、戦争の惨禍を第3世代に伝え、命を大切にすることを教えなければならない」。天皇とキリスト教の神はどちらが偉いかと軍部に迫られ、病院の十字架を切られた聖路加国際病院の戦時中の歴史を証言。

 2011年11月には、医療面、新老人運動、数々の著作などの功績から、第19回福音功労賞に顕彰され、「子どもの命を大切にしたい。日本を武器のない国にしたい」と抱負を述べた(本紙11年11月20日号)。

「死は怖い。だから一生懸命生きる」 ラブ・ソナタ東京で輪島氏 日野原氏を回想

輪嶋、日野原

 日野原重明氏は、7月26日、東京千代田区紀尾井趙のホテルニューオータニで開かれた「ラブ・ソナタ日韓交流午餐会リーダーシップフォーラム」(1面参照)のメインスピーカーとして話すはずだった。当日は、昨年の11月3日、福岡で開かれたテノール歌手べー・チェチョルさんのコンサートに駆けつけ、音楽プロデューサーの輪嶋東太郎氏(ヴォイス・ファクトリィ株式会社代表取締役)とトークする日野原氏の映像を上映。輪嶋氏が日野原氏の思い出を語った。【中田 朗

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 「『君たちが持っているいのちというものは、与えられているということをよく理解してほしい。君たちが成長すれば誰かのためにいのちを使うことが必要であると分かってくるから、それまでは勉強したまえ』。私はよくそう言うんですよ」

 「死が怖いと思っている私が、今日、皆さんの前に、こういうふうにやかな顔で話ができるというのは、これが誰かの恵みだと私は考えている…」

 朗々とした日野原氏の声が、映像から流れてくる。「本来なら日野原先生は舞台の袖のあちらに控え、私がアシストをするつもりでした」。輪嶋さんは、そう話す。

 2月から何度も危篤に陥っていたことも明かした。「『今日は越えられないだろう』という状況を何度も越えられた。6月には車いすをやめて歩く練習をする、と。『だから、ラブ・ソナタはキャンセルしないでほしい。行くから』とおっしゃっていた」

 輪嶋さんは今、日野原氏の本を執筆中だ。「そのために、昨年の12月29日から1か月半にわたり、先生のご自宅にお邪魔した。この本は、亡くなった後に天から聞こえてくるような本になる」と話す。

 その中で日野原氏がいちばん望んでいることは「真の信仰を持って、キリストの愛で、日本人と韓国人、世界の人々が一つになること。そして日本に霊的な復活(リバイバル)が起こること。このことのために、私の仕事は今日から始まるんだとおっしゃっていた。『信ずる者は死んでも死なない』、そのとおり今、日野原先生はこの会場におられるような気がする。私たちはこの言葉を胸に刻んで、神様の愛で一つになる日を信じ、願い、これからの人生を歩んでいって、日野原先生の願いに応えていきたい」

 「死は怖いですか」との質問に対し、「怖いね。未知のものだから。だから一生懸命生きるんだよ。神様がいただいたいのちだから」と答えたとも明かす。「亡くなられた日、私は地方にいた。先生のお宅で最後のお別れをさせていただいたが、この世にこんなに綺麗なものがあるだろうかという顔で、まるで清らかなお水のようなお顔をして旅立たれた。その怖さからすべて解放され、今、イエス様のところにおられると思います」

   「よど号ハイジャック事件で降り立ったのが韓国。そこから私の本当の人生、神様のためだけに生きる人生が始まったと日野原先生はおっしゃっていた。ご家族は『パパのすばらしいところは、キリスト者としての生き方を貫き通しているところだ』と。先生は『人と人のつながりが国と国との関係を凌駕する。だから一人ひとりが愛でつながることが大事なんだ』とよく言っていた。どうか、御国が来るため愛の関係で結ばれる者となるよう、先生に代わってお願いします」と結んだ。