8月27日号紙面:72年目の8月6日の広島 各地で平和の祈り 被爆体験に耳傾け
被爆72年となった8月6日、広島では各地で平和の祈りがささげられた。広島の諸教会も、これまで様々な形で平和への取り組みをしてきている。その中で諸教会の協力により現在も継続しているものに、8月6日午後8時10分から広島平和記念公園の供養塔広場で行われる「キリスト者平和の集い」(主催:広島市キリスト教会連盟)がある。
今年は台風が接近し、例年よりも参加者が少なかったが諸教会等から約80人ほどが集い、佐藤眞一さん(聖公会退職司祭)の被爆体験に耳を傾け、平和を祈念した。佐藤さんは中学2年生の時に、学徒動員で広島駅より芸備線下深川駅に向かう途中、戸坂トンネル走行中に被爆した。市街地にいた父を捜したが勤務先のビルの瓦礫から遺体として見つかり火葬した。街中が静寂に包まれ、何の音も聞こえてこない状況で、あるのは焦土と化した街並みと死体の数々だったという。
台風の影響でテントや椅子が撤去されているにも関わらず、参列者は60分の証言に立ったまま聞き入った。2度と広島長崎を繰り返してはならない、という強い決意をそこに見ることができた。
広島の教会の多くが8月6日前後の日曜日に平和祈念礼拝を行っている。広島福音自由教会(代表牧師/拝高真紀夫)でも開拓伝道以来、約30年間毎年続けてきており、被爆された教会員の証しと説教を通じて平和への思いを深めてきた。今年も高陽、可部、安佐南の全チャペルで行い、高陽の礼拝では被爆された笠井文子さんが「4歳の記憶をたどって」と題し、子どもの視線で見えた様子と、大人になってからの理解とを証しした。
彼女はまだ幼児期であったにも関わらず、被爆地の惨状は鮮明に心に刻まれている。その日、玄関先で妹を抱いた瞬間に真っ白な閃光が辺りを照らし自宅が大破した。幸い、柱と柱の隙間に2人は倒れて、九死に一生を得て辛うじて命は助けられたが、勤労奉仕に出かけた姉は二度と帰ってくることはなかった。家族の悲しみは深く、被爆者として負わされた人生は言語を絶するものであったために、これまでその出来事には固く口を閉ざしてきた。しかしキリスト者となった今、神が確かに自らの人生を導いておられることを信じ、証しできるまでに変えられてきたと証しした。
証しを深く心に刻んだ後、「平和をつくる者は幸いです」(マタイ5・9)のみことばから説教が語られた。礼拝を通して改めて「平和への祈り」の大切さと「キリストこそ人を慰め癒し続けるお方である」ことをともに確認した。
また今年は広島女学院中学高校からの依頼を受け、当教会会員の栗原明子姉(91)を6日の同校平和祈念礼拝に被爆証言者として遣わした。19歳の時に被爆し、翌日から父親を探しに市内を探し巡る中、南方留学生に出会い、大学の校内で過ごし大いに助けられ励まされた。その後、医師であった父を勤務先の病院で失ったことがわかり、自身も原爆症により生死をさまよった。留学生の優しさと命がけの救助活動を忘れないでほしいこと、また戦争と原爆の使用は絶対に繰り返さないでほしいことを熱く語り、学生達も真剣に耳を傾けた。
他に諸教会の取り組みとして、米国人をはじめとする世界のキリスト者と戦争と被爆の悲惨さについて分かち合うということもある。多くの場合、平和記念公園の平和資料館、原爆ドームを一緒に見学する。当教会でもこれまで毎年、数人から数十人のクリスチャンをお連れし、その数は数百人にのぼる。今年も米国シアトルのミッショトリップのメンバー6人が6日の平和記念式典に参列し、市長と首相の平和宣言等に耳を傾けた。訪問者の多くが「原爆についてこれまで全然知らなかったことが恥ずかしい」、「二度と繰り返されてはならない」、「このことを自分の家族、友人達に伝えていきたい」など感じたことを率直に分かち合ってくださる。
これからも戦争と被曝の悲惨さを語り継ぎ、二度と繰り返されないこと、真の平和をもたらす福音が宣べ伝えられることを祈念し続けていきたい。(レポート・北野献慈=広島福音自由教会牧師)