2017年9月10日号5面

 宗教改革から原爆投下まで。長崎のプロテスタント史をたどる『長崎プロテスタント教界史 東山手から始まった新教の教会』(全3巻)が、同地の地元出版社長崎文献社より刊行された。著者は元長崎YMCA総主事の松本さん。カトリックの印象の強い長崎だが、プロテスタントにとっても開国後重要な宣教拠点だった。今回新たに新聞資料など新史料119年分を調査し、長崎プロテスタント史の全貌を明らかにした。世界や日本全体の動向にも目を配り、長崎から見た、日本プロテスタント史の様相もある。長崎市で松本さんに執筆の経緯と思い、今までの歩みを聞いた。【高橋良知

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『長崎プロテスタント教界史 東山手から始まった新教の教会』松本汎人著 長崎文献社 5,040円税込 全3巻(別売りなし)

 欧米各国と修好通商条約が交わされた翌年の1859年には、続々と宣教師らが日本へ入国した。J・C・ヘボン、N・ブラウン、D・C・シモンズ、J・リギンス、C・M・ウィリアムズ、G・F・フルベッキらだ。先の3人は神奈川に、リギンス以下は長崎へ降り立った。まだ横浜が国際港として整備されていなかった時代、長崎は海外との窓口として大きな役割を果たした。

 『長崎プロテスタント教界史』では、キリシタン時代から幕末開国前夜までの序章、代表的な宣教師らと教会形成を追った明治の初期宣教、さらに教派ごと、学校、団体ごとの歩みを明治、大正、昭和と追っていく。巻末には、詳しい年表と、宗教改革の概略、解説がある。各巻扉には、学校や教会、宣教師、牧師らの肖像などの写真資料が豊富に収録されている。

 松本さんが注意を払ったのは、社会とのかかわりだ。「教会の記念誌の場合、牧師や信徒が思い出を語るという形式になる。しかしそこでれてしまう教会の歴史もある。教会は時代時代に必ず社会との接点をもっていたはずだ。時代の動きと合わせて教会の動きを見ていきたいと思った」と言う。「牧師がその教会に就任するまでどのような人生を歩んだか。信徒はどのような活動をしていたか、という教会の記念誌でもれている部分も調べた。自分たちの教会の牧師がどういう生き方をしてきたのかを知ると親しみがわくと思う」と着眼点を話した。

 本書は豊富な資料に基づいて、歴史を体系的に記述している。同時代の様々な動きに目を配りながら、出来事の過程や主要な人物の足跡を丁寧にたどった。明治初期の禁教下の迫害、キリスト教解禁後の教会形成、私立学校設立、大挙伝道、宗教団体法、治安維持法、日本基督教団成立といった動きに、長崎の教会がどのような影響を受けたかが分かる。

 また長崎発の動きとして、島原、佐賀、鹿児島、熊本など九州各地に広がった宣教の動きを追う。聖アンデレ神学校など、神学校の設立、現在の活水学院、鎮西学院につながるミッションスクールのルーツ、そしてYMCAなどキリスト教関連団体の歴史もまとめた。

 鎖国中の日本についても調べた。「厳しい禁教下ではあったが、唯一世界に開かれていた出島で、改革派オランダ人からキリスト教信仰の影響を示す証拠はないか」という関心があったからだ。結果として証拠は見当たらなかった。しかし、キリシタン時代から幕末までを概説する序章では、隠れキリシタン、漢訳洋書の密かな持ち込み、アジアや北米沿岸への漂流民、密入国者、諸外国船の接近などの動きに注目し、開国までの歴史の連続性をうかがえる。宗教改革についての巻末の補章も宗教改革500年の紹介として便利だ。

教会と社会の接点を意識

著者で元長崎YMCA総主事の松本さん

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 松本さんが、キリスト教史を書くきっかけとなったのは、総主事として16年奉職した長崎YMCAの歴史を調べたいと思ったことだ。長崎YMCAは明治10年代から歴史があるが、当時の新聞資料を調べるうちに、キリスト教関連の記事が多いことに気づいた。「これらを羅列するだけで、長崎の教界の歩みがれる」と思った。従来から長崎のプロテスタント史の主要部分は研究されていたが、「長崎での宣教の歩みが、体系的に研究されてきたことはなかった」という思いもあり、長崎プロテスタント史への構想を抱いた。

 新聞資料は十紙約119年分を9か月間県立図書館に通い、朝から夕方まで収集した。その後、各教会・団体史とも照合した。戦前の教会資料の多くは原子爆弾によって失われたといった、長崎ならではの事情にも直面した。

 長崎YMCAの研究は、2004年に自費出版でまとめた(08年に長崎YMCAから発行)。また鎮西学院の創立125周年記念事業に合わせて、鎮西学院中興の祖であり、長崎YMCA設立に貢献した笹森卯一郎について、『火焔の人 教育者にして伝道者笹森卯一郎の生涯』を長崎文献社から刊行(06年)した。これらの経緯が『長崎プロテスタント教界史』刊行につながった。長崎の超教派ネットワーク、長崎キリスト教協議会も本書の出版に協力をした。

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 松本さんは広島県に生まれた。山間部だったため原爆投下時に、直接の影響はなかったが、父親が広島市街への片づけに駆り出されるなどして、二次被曝した。避難者や親族など、周囲で被曝を目の当たりにしてきた。 戦後のキリスト教ブームの波が地域にも訪れ、高校時代に、友人に誘われ教会に通うようになった。当時教会には高校生だけで10人ほど。青年会が活発で聖書研究、キャンプなどに皆で取り組んだ。就職のため移った大阪の教会では、街頭で太鼓を打ち鳴らして賛美やメッセージをする路傍伝道にも参加した。

 大阪で働きながら夜間大学に通っていたが、卒業後は趣味の写真術などを生かし、「キリスト教視聴覚センター」で働きたいと思った。「それならば神学の基礎を学んだほうがいい」と勧められ、同志社大学神学部に入学。卒業後は教授の勧めもあり、京都YMCAに入職した。「YMCAについてまったく知らなかった。仕事は大変だったが面白かった。職員の上下関係がなく、総主事から新職員までみな平等に企画提案ができる、ニックネームで呼び合うなど当時としては珍しい組織だった」と振り返る。

 在職中大きな事業としては青少年センター、本館の建て替えを担当したこと。「当時NHKで放送されていた番組『計画の科学』に学び、アポロ計画でも使われた、工程管理手法PERTを知った。これが仕事で非常に役に立った」。この手法は建て替え事業のみならず、後の様々な事業を企画する際にも役立った。1981年に長崎YMCA総主事に就任すると、YMCAの平和活動が認められて、長崎の官民による財団法人、長崎平和推進協会設立に参画した。93年には、いのちの電話発足にも参加。星野富弘詩画展、大聖書展、アウシュビッツ展、原爆の図展、米国で見つかった青い目の人形答礼日本人形の里帰り展などの企画に事務局長としてかかわってきた。「教会と外をつなぐ役目をやってきた」と話す。YMCA退職後も長崎でできた人間関係を大切にし、長崎で暮らしている。07年までは学校法人長崎学院理事長を務めた。

「戦後史は次世代の課題に」

 『長崎プロテスタント教界史』のあとがきには戦後について、「の中から希望を絶やさず立ち上がってゆく、いくつもの感動的なエピソードが語り伝えられています。そして教会、学校、諸団体ともに力づよい復興と発展を遂げ、新しい動きも加わって今日に至っていることは周知のとおりです。遠からず『長崎の戦後教界史』の執筆者が現れることを期待してやみません」と述べている。

 本書は松本さんとしても「不本意ながら」、原爆投下までの歴史で終わっている。昭和30年代までの新聞資料は手元にある。だが、それを裏付ける教会史料を収集するのは、今年80歳になる松本さんには困難に思えた。「ぜひ次の世代の方にやっていただきたい」と言う。また横浜市や神戸市にあるようなキリスト教史研究会が、長崎でも設立されることへの願いもある。