11月12日号紙面:50年歌い継がれたハレルヤコーラス 荻窪栄光教会 中田羽後訳メサイア
1958年創立の日本イエス・キリスト教団荻窪栄光教会は、その創設者の一人中田羽後の指導により、68年12月に第1回メサイア公演を行った。以後毎年12月に行われ、当初、教会の礼拝堂で行われていた公演は、97年の第30 回、そして2000年の第33 回以降、外部会場にその場を求め、中田羽後亡き後もその音楽伝道のスピリットを継承している。今年第50回を迎えることとなった12月10日の記念すべき本公演を前に、音楽伝道者中田羽後の生涯とメサイアへの思いを振り返る。
賛美もて我に仕えよ
中田羽後の生涯
中田羽後は1896年9月9日、重治とかつ子の次男として秋田県大館で生まれた。1900年家族と共に上京。幼稚園の頃の逸話がある。
─羽後は大太鼓代役に引っ張り出された。「まず私がドンドンドンと三つ鳴らす。大太鼓が拍子を取らなければ、この楽士たちはてんで手も足も出なかったものらしい」と言い、「私が太鼓を叩くと、一同はよく合奏した。どこかリズム感をもっていたと見える。誇張して言えば私の教会音楽家としてのスタートはその頃切られたと言えるかも知れない」─
07年4月、青山学院中学部に入った。学院には文芸会があって音楽知識は急に豊富になった。この演奏会には戸山学校軍楽隊が時々やってきて演奏した。「このバンドの演奏会では、行進曲、舞曲、描写学等という言葉も覚えた。どれだけ私の音楽鑑賞力が養われたかわらない」と述べている。
転機となったのは11年の母の死と父の再婚であった。ある日、聖書学院の米田豊に呼び出された。米田は「『汝の御手は夜もすがら昼もわが上にありて重し』(詩篇32章4節)を読み、私の頭を押さえつけた。私はそれを神の手のように恐ろしく感じた。この悔い改めが私の新生となった」と述べている。16年聖書学院に入学したが、「潔め」に迷いが生じ、さらに修養生長谷川と喧嘩し大けがをさせてしまった。そうしたことがあって、伊豆大島の安倍千太郎に導きを求め、もし解決しなかったら死んでしまおうと思った。その頃安倍はハンセン病者を集めて一緒に生活していた。羽後はそこで牛飼いや養鶏を手伝った。ある日安倍は羽後を墓場に連れて行き、「羽後さん。君はいつも死にたいと言っているそうだが、ここで死んでもらおう。君は聖書を読んでよく知っているはずだ」。その時、羽後は全身が震えた。「『われキリストと共に十字架につけられたり』という言葉を知っているだろう」、「はい。『もはやわれ生くるにあらず。キリストわが内にありて生くるなり』」。そのとき羽後の心に光が射した。「わかりました、先生」。羽後は地面に突っ伏して涙ながらに祈った。気がつくと安倍の手が羽後の頭の上に載せられていた。その帰り道で「お前は賛美をもって私に仕えなさい!」という鋭い神の声を聞いた。その言葉を神の啓示と受け止めて、その後の人生を信仰と教会音楽に捧げたのである。
19年10月、ロサンゼルス聖書学院に留学をした。そこで声楽とコンダクティングと和声学を学んだ。翌年11月、先に渡米していた重治と共にシカゴ・ムーディ聖書学院に行き、希望科目を聴講した。ここで木村清松や父の伝道会で独唱をしたこと、ジプシー・スミス、ビリー・サンデーの説教やロードヘーバーの独唱などを聞いたこと、さらに各種の聖歌集を集めたことなどが大きな収穫となった。
24年再渡米した際には多くの音楽家との交流を得た。後日「思えば福音聖歌のロードヘーバー、発声のウィリアムソン、声楽のリード、解釈法のウィザースプン、指揮法のプラサロー、作曲のサワビーら、どれも第一流で私は私に与えられた神の賜物を深く感謝した」と述懐している。27年8月28日、今井朝子と結婚、28年4月、英国経由で帰国した。二人の間には純子、祐治が与えられた。
羽後夫婦は程なく荻窪に新居を構えた。その頃の生活ぶりを次のように述べている。「自分の一生の中で、この帰国後の5年間ほど張り切った時はなかった。その間、人にバプテスマを授けたこと最も多く、聖歌を訳し、また作曲したこと最も多く、教会音楽の普及に努力したこと最も多く、同時に人に嫌われ、憎まれ、反対されたことも最も多い歳月であった」と述懐する。確かに羽後は、家では聖歌の編集、外では中田聖楽研究所の教授、聖学院や青山学院、女子学院、駿河台女学院(YWCA)での教師生活と多彩であった。
羽後は生涯において7種の「聖歌」発刊に携わっている。23年「リヷイヷル聖歌」、32年「リヷイヷル聖歌改訂版」、46年「リバイバル聖歌改訂増補版」、50年「リバイバル聖歌写真版」、日本福音連盟の要請により58年「聖歌」、65年「インマヌエル讃美歌」の出版。「聖歌」は2000年「新聖歌」の出版と共に廃刊となった。42年間にわたって多くの教会で愛唱された「聖歌」はその後、羽後の弟子であり、良き協力者であった和田健治によって「聖歌総合版」として復刊された。このことは羽後の聖歌にかけた情熱と使命が今なお継承されていることの証しであって、関係者にとって大きな喜びである。
羽後は「聖歌」編集が縁となって森山諭と知り合った。羽後は長年地域に伝道したく願っていた。森山は東京開拓伝道の拠点を探していた。双方の願いが一つとなり、今日の荻窪栄光教会が誕生した。羽後は74年7月14日、78歳で召されるまで、14年間心血を注いで聖歌隊を指導し続けた。そのスピリットは「神には最高のもの、最善のものをささげる」ことであった。
羽後のスピリットを継承したメサイア公演は今年で第50回を迎える。まさに中田羽後の生涯は「聖歌に生まれ、聖歌に生き、聖歌に命を捧げた」ものであった。彼こそはわが国が生んだ教会音楽家として希有な逸材であり、それ故に「聖歌の父」と呼んでも大方の理解は得られることと思う。
三十年かけ邦訳
羽後とメサイア
羽後と「メサイア」との本格的な出会いは1919年、ロサンンゼルス聖書学院の合唱隊の「メサイア」に出演した時であった。その後、羽後はハシラー教授のパイプオルガンの演奏を聞いた時の印象を次のように伝えている。「私は長い間パイプオルガンにあこがれていました。今晩初めて聞くことができて、まことに嬉しく思います。私は合唱隊で数知れぬほど歌った中で、ヘンデルの『ハレルヤ・コーラス』、ハイドンの『天は神の栄光を語る』などを歌った時ほど嬉しさを覚えたことはありません。」
羽後は1932年、東京ボランティア・コワイアを組織して、「メサイア」の全曲演奏を実現した。戦後も東京チャペルセンターで続けられ、晩年に至るまで合計50数回の「メサイア」公演を続けた。羽後と父との間には少なからず確執があった。だが、シカゴにおける「メサイア」演奏会に出席した際にその確執が不思議なように氷解していく秘話を羽後は「父の涙」という小自叙伝に明らかにしている。
─曲が段々進んで行って、第二部のアルトの独唱、あの有名な言葉「彼はあなどられ」が、老婦人の口から出た時、たった五つの音であるけれども、その訴えるような声は、ただちに私の魂を魅了してしまった。しかも、それに続く「ソ・ファ・ミ、ファ・ミ・レ」のむせび泣きと、「あなどられ、すてられ」に続く、同じ旋律による嘆きの答え。彼女はこれを繰り返し、オルガンもまた繰り返し、ついにあの、「悲しみの人にして悩みを知れり」に到達した。その「悲しみ」という言葉の歌い方!その「悩み」という言葉の表現の仕方!しかも、パイプオルガンは、この歌手に劣らず、表現としては、技巧の限りを尽くし、歌手が弾いているのか、弾き手が歌っているのか分からないような演奏ぶりであった。
われを忘れて、聞いていたわたしは、ふと気がついて、わたしの左側に坐っていた父の顔をちらっと見た。そして思わず、はっと息をのんだ。父の頬には涙が滂沱と流れているのに、父は拭こうともせず、口をゆがめたまま、歌手をじっと見ていたのである。後にも先にも、わたしが父の涙を見たのはこの時だけ。泣いて作った歌だけが人を泣かせるものだ。─
羽後が「メサイア」の邦訳に本格的に着手したのは42年であった。単なる直訳ではなく聖書の教えを十分に反映させての邦訳は難事業であった。その上羽後は今や国民的唱歌となっている「おお牧場はみどり」の作詞をはじめ、他にも多くの仕事を手がけていた。「日本語訳メサイア」が出版されたのは、着手してから約30年後の71年のことであった。
園部治夫(女子聖学院短大教授)は前夜式において「日本語訳メサイア」に関して次のように述べている。「先生は生涯を『メサイア』演奏にかけられたばかりではなく、その日本語訳の出版をも畢竟の仕事とされた。その動機は18世紀半ばに英国を襲った国家的危機を救うためにのろしを上げた信仰復興に共鳴したヘンデルが、宗教芸術によってその使命を果たすことができたことを知り、その信仰態度に打たれて、ヘンデル研究に情熱を傾けるようになった。その翻訳に当たっては、座右において絶えず祈りながらひもといた聖書からの教えを信仰の証しとしてそれをことばに表している。これを歌う者は預言の言葉を確信して人に伝えるであろう。これを聞く者は神より賜る奇しき音信に感動し、御神にぬかづきひれ伏すであろう。」
ヘンデル作曲の「メサイア」の歌詞は聖書からとられ、イエス・キリストの降誕から十字架と復活、キリストの再臨までを荘厳に歌い上げている。この曲は今までにこれに触れたことのある多くの人々に深い感動と厳しい挑戦を与えてきた。それは他でもなくこの曲を通して聖書のメッセージが一人ひとりに語られているからに他ならない。このたびの公演が皆さまの人生に豊かな糧となり、生活の活力ともなれば私たちの望外の喜びである。(荻窪栄光教会担任牧師中島秀一記)