11月12日号紙面:第6回北海道合同教職者会 廣瀬薫氏 神の国の幻(ビジョン)、熱源(パッション)、使命(ミッション)
2017年11月12日号 01面
第6回北海道合同教職者会(同実行委員会主催)が、10月24日から26日まで、北海道札幌市の定山渓温泉のホテルを会場に開催された。主講師は、日本福音同盟理事長の廣瀬薫氏。「『神の国の宣教』−神の国のビジョン、パッション、ミッション−」をテーマに3回の主題講演を行った。各講演後の「コイノニア」による分かち合い(第6回日本伝道会議などで実践されたグループ分かち合い)や、7領域にわたる分科会を通して、道内全域からの教職者を始め、道外からも加わった参加者は、それぞれの宣教の課題を分かち合い、学び合い、交わりを深めた。【髙橋昌彦】
この教職者会は1984年に開催された第1回北海道伝道会議に端を発し、「聖書信仰に立つ教職者が一堂に会」する時として回を重ね、今回にいたっている。
開会礼拝では実行委員長の藤山勝彦氏(同盟基督・室蘭キリスト教会牧師)が「宣教の夜明け」と題してマルコ1章からメッセージ。「イエスはガリラヤで宣教を開始されたが、イエスの中に神の国があり、その聖霊の力によって、人々の魂が解き放たれた。私たちが遣わされている北海道には538万人の人が住み、その多くは神を知らない。その心の闇に光を灯したい。私たちの交わりには、29に及ぶ教団教派、単立教会、パラチャーチが属している。広い北海道で福音を伝えていくためには、立場が違い神学が違っても、心を開いて互いの立場を認め合い、神の国の広さ豊かさを味わいながら、愛のうちにお互いを建て上げていく必要がある。今回の学びを通して神の国理解を深めたい」と語った。
廣瀬氏は講演の冒頭、自己紹介の一部として、現在持っている「日本同盟基督教団理事長」「東京キリスト教学園理事長」その他数多くの肩書きに触れた上で、「多くの働きをしているが、本質は一つ。すべて神の国の宣教の一環である」とした。その立場は「ベクトルは鮮明にスタンスは広く」。その際の「ベクトル(方向性)」を「聖書信仰」「日本のリバイバルを目指す」「教会を拠点とした神の国を作る(宣教)」の3点で表し、スタンスを広く取る際に動かせない3つの定点として「聖書の記す初代教会の信仰的遺産」「宗教改革の信仰的遺産」「第二次大戦時の日本の教会の反省から来る信仰的遺産」を挙げた。
講演Ⅰのテーマは「ビジョン(何を目指す?)」。ルカ12章31、32節の「神の国」を理解するためには「聖書のキリスト教世界観」を身に着けることが大事だとして「創造」「堕落」「回復」「完成」の4点を挙げる。
「創造」とは、「神様が創ったものはすべて最高に良いものであり、この世界に不必要なものは何もない」ということ。「堕落」とは、別の道を選び本来の姿でないこと。それが聖書の言う「死」であり、これが世界には満ち満ちている。「回復」とは、以前の姿ではなく、本来の方向に転換させてくれること。それを可能にするのが主の十字架と復活。被造物は本来の姿に生きるとき、すべてをかす神の命を回復する。そして、すべてが創造の目的にいたる「完成」の時が来る。「神の国」とは、この「完成」に向かうすべてのプロセスのことであり、死後に行く所ではない。
「神の国」とは、「すべての被造物が神様の御心どおりに活かされている所」であり、「誰かが喜ぶために誰かが悲しんでいるのは神の国ではない」。日本の教会は「神・罪・救い」は大事にしてきたが、救われた後に「自分と世界を活かして完成させる歩み」という実践に弱かったとし、「神の国のビジョン」とは「主に活かされて、周りを活かして、皆が活かされて喜ぶ神の国を作る」こと、だとした。
講演Ⅱのテーマは「パッション(何がエネルギー源?)」。「皆が活かされて喜ぶ神の国はできるのか」。人の力ではできないが、聖霊によってできる。正しい「教え」は「実践」されなければならないが、この両者を直結すると「律法主義に陥る」と言う。その時必要になるのは「第一義的に聖霊を求めること」(ルカ11章9〜13節)だとし、「友の会」を創設した羽仁もと子を紹介する。創設の理念は「神の国建設」であり、モットーは「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」、生活習慣は「朝起きて聖書を読み、昼は疲れるまで働き、夜は祈りて眠る」。マザー・テレサの実践も同じ構造を持っているとし、「神の国のパッション」は、聖霊とみ言葉の養いに満たされることであり、その時実践が主との出会いになる、とした。
講演Ⅲのテーマは「ミッション(何をする?)」。それは「十字架の犠牲を実践する」ことだとして、賀川豊彦の「神の国運動」を挙げる。教会、幼児教育、救済事業、労働運動、平和運動、その他多岐にわたる賀川の活動領域すべてが彼のキリスト教信仰の実践であり、「神の国のミッション」は十字架を負ってイエス様について行く生き方であり、そのようにクリスチャン一人ひとりが生きるとき、この死の世界にいのちが入り、人と世界を活かす、とした。