碓井真史 新潟青陵大学大学院教授/心理学者

現代でさらに高まる聖書の意義

2025年。21世紀も四半世紀が過ぎた。個人的には、01年になったとき、思ったほどの21世紀の未来感がなく、少しがっかりしたものだ。しかし、25年。さすがに未来感のある出来事が起こりつつある。空飛ぶ車、テレビ電話(そうは呼んでいないが)、リモート会議、自動翻訳、自動運転、ロボット、ドローン、無人攻撃機。人々がみんな小型コンピューター(スマホ)を持ち、世界がつながった。そして生成AI。

昔、SF映画で見た世界だ。コンピューターに質問すれば、何でも答えてくれる。礼拝メッセージの原稿も、秒で作ってくれる。ベテラン牧師から見れば、つたない内容かもしれない。しかし、最初はおもちゃだった将棋ゲームが、今は最強のプロ棋士でさえ打ち負かすようになった。次の25年でいったい何が起きるのだろう。

科学技術の進歩を私たちも活用したい。私たちは、飛行機に乗り、テレビや映画を活用してきた。今やキリスト教界でも、インターネットなしの生活は考えられないだろう。 もちろん、危険はある。システムが複雑巨大化すれば、大きな事故も発生する。また、自動車社会になったからといって、歩かなくなれば健康を害する。人々は、エスカレーターを使いながら、スポーツジムにも通っているのだ。

物理学も脳科学も、日進月歩に進歩する。宇宙の始まりのビッグバン理論は、「光あれ」をイメージさせ、心地よく感じる人もいるだろう。宇宙も地球も、人間存在にあまりにも適していることから、神による創造に思いを馳(は)せる人もいる。しかし、現代の理論物理学が主張する多元宇宙論(平行宇宙、マルチバース)では、無数の宇宙の存在を仮定する。そうすると、その一つがたまたま人間に適していたにすぎないとも言えるので、そんな理論は気に入らないと感じるクリスチャンもいるかもしれない。

けれども、科学とキリスト教は、対立するものではない。私たちは、新しい科学の発見に一喜一憂する必要はない。飛行機が飛んで、雲の上に天国はないことを知っても、私たちの信仰には関係がない。科学でわからない部分に神の存在を見るようなことをすると、科学が進歩するほど神の居場所が狭くなってしまう。

聖書の本を物理学的に分析し、紙やインクの成分がわかっても、それは科学的な意味はあっても、信仰には無関係だ。科学者も、紙とインクの集まりに「すぎない」と考えるのは、一面的だ。愛も信仰も、そのときの脳の変化を調べることはできる。それは科学的に意味がある。しかし、脳の電気変化にすぎないと考えるのは間違いだし、私たちも脳科学者と対決する必要はない(D・M・マッカイ『科学的自然像と人間観 : 現代において宗教は可能か』)。

急激な科学の進歩の中で、人々は科学技術をどう活用し、科学的発見をどうとらえたら良いのか、迷っている。聖書とクリスチャンの存在意義は、現代社会においてさらに高まっているのだ。

2025年01月05・12日号 03面掲載記事)