映画「大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院」――沈黙の佇まいに染みる光と音
フランス・アルプスの山間に建つグランド・シャルトルーズ修道院。聖職者ケルンのブルーノが1084年に拓いたここには、修道士が互いに沈黙を守り、厳しい戒律のもと祈りと学びと黙想の日々が流れている。グレーニング監督は、家族の訪問さえ年に2度しか認められていないこの修道院で修道士らとともに6か月間暮らし、静謐な時空へ誘う作品に仕上げている。
自室で祈る修道士。?列王記19章11―12節の聖句が表示される。「地震の後に火が起こった。しかし火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かなささやく声が聞こえた」。預言者エリヤが、アハブ王の迫害を逃れて神の山ホレブにたどり着いた時の情景だ。エリヤは、この’静かなささやく声’に気づくと外套で顔を覆いほら穴の入り口に立つと、神の明確な声でダマスコの荒野へ行けと命じられ預言者として立てられた。グレーニング監督は、「フランス語聖書では『さざめきのようなかすかな音が聞こえた』という翻訳だった」という。まさに激しい’しるし’の後の’沈黙の音’に神のみ声を聞き、神のみ前へと進み出る。アルプスの中腹に建つ修道院に暮らす修道士たちのあり方そのもののような聖書の一節だ。
本作にはBGMもナレーションも解説の字幕など一切ない。冒頭の聖書の一節のように、聖書やブルーノ、エッカートらの言葉がところどころで表示される。例えば「主よ あなたは私を誘惑し、私は 身を委ねました。」という言葉は5回表示される。その都度何の説明もなくただ修道士たちの瞑想の姿や修道院での生活の様子が映し出される。神に仕える喜びの一方で、厳しく律する生活を追求するなかで神を求めていく求道者たち。彼らの立ち居振る舞いをとおしてグレーニング監督は、この言葉の意味と実践のバランスを観る者の観想に委ねる。
粛々とすべきことを為していく修道士たち。作品ではシークエンス(まとまりのある一連のシーン)の積み重ねのため修道士の一日が良く分からない。平日の典型的な過ごし方としては、23:30起床・房(個室)での祈り→0:15礼拝堂でのミサ→3:30房で1回目の祈祷・就寝→6:30起床→7:00房で2回目の祈祷→8:00礼拝堂でミサ、瞑想・祈り→10:00房で3回目の祈祷、仕事・学習→12:00房で4回目の祈祷、昼食・自由時間→14:00房で5回目の祈祷、仕事・学習→16:00房で6回目の祈祷→16:15礼拝堂でミサ、学習・祈祷→18:45房で7回目の祈祷→19:30―就寝。ほぼ一日を房で過ごし、仕事の時間や廊下の行き交いでも挨拶さえ交わさず沈黙を守る。ただ日曜日昼食後の4時間だけ会話や遊びのひとときが許されている。
修道院内の音といえば、行動の変化と移動を告げるチャイムや礼拝での聖歌、仕事での作業音、回廊を歩くサンダルの音など。あとは山間を抜ける風や鳥のさえずり、しんしんとした雪の降り積もる空気感。朝昼夜と変化していく陽の光にさえ音を感じさせらるような想いに駆られる。
グレーニング監督が取材を申し入れたのが1984年。「準備が整った」との返事が届いたのは16年後。映画の完成に5年かかり、日本に届くのにさらに9年の時が流れてきた。作品の最後に、盲目の老修道士が独白のような形でシャルトルーズ修道院で語らってきた神と自らの生き方につい答えている。沈黙の世界で聴いたであろう’静かなささやく声’の豊かさ自由さが、なんともうらやましくさえ思えてくる。 【遠山清一】
監督・脚本:フィリップ・グレーニング 2005年/フランス=スイス=ドイツ/169分/原題:Die grosse Stille 配給:ミモザフィルムズ 2014年7月12日(土)より岩波ホールほか全国順次ロードショー。
公式サイト:http://www.ooinaru-chinmoku.jp
Facebook:https://www.facebook.com/ooinaruchinmoku
2006年サンダンス映画祭審査員特別賞受賞、ヨーロッパ映画祭ベストドキュメンタリー賞受賞、ドイツ映画批評家協会賞ベストドキュメンタリー賞受賞、ドイツカメラ賞最優秀賞受賞、バーバリアン映画賞ベストドキュメンタリー賞受賞作品。