インタビュー:「KANO 1931海の向こうの甲子園」――ウェイ・ダーション監督に聞く
1月24日から公開された映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」。中国大陸では、満州事変への軍靴の音が近づいていた1931年(昭和6)。日本では、甲子園球場での高校野球大会で台湾代表の嘉義農林学校(現・国立 嘉義大学)が初出場で準優勝し、’天下の嘉農’と評され国内に感動を与えた。
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映画監督として高い評価を受けた「海角七号 君想う、国境の南」(08年)、セデック族の抗日暴動’霧社事件’をテーマした「セデック・バレ」(11年)など、日本統治時代の台湾を描いてきたウェイ・ダーションさんは、この史実と嘉農野球部の資料を見つけ心を動かされた。「当時、日本人、漢人(中国大陸から移住した漢民族の子孫)、原住民族(中国語で’先住民’は滅んでしまった民族を指すため原住民と表記)の3民族で1つの野球チームを編成したのは近藤兵太郎監督だけでした。それは、大変な苦労でしたでしょうし、とても素晴らしいことだと思います」。
日本が、清から台湾を割譲統治して36年たち、漢人や原住民にも日本語での高等教育の門は開かれていたが、合格者枠は定まっていたようだ。とりわけ、野球部はどの学校も日本人の学生で編成。3民族混成チームの嘉農は、予選未勝利の弱小チーム。そこに愛媛の松山商業で野球部監督を務めていた近藤兵太郎(永瀬正敏)が、台湾の商業学校で教鞭をとっていたことから、ストーリーが展開する。したがって台詞の3分の2以上が日本語。
野球経験5年以上の出演者たち
野球のシーンにリアルの演出を求めて、演技経験はなくても5年以上の野球選手経験がある人たちをオーディションで選出。エースの呉明捷役を演じたツァオ・ヨウニンは、1年間休学して出演したが現役の台湾代表選手(カテゴリー21歳以下)で、2014年ワールドカップでの台湾優勝に貢献したひと。ウェイさんは「スポーツでの青春群像劇では、友情とか目標達成などがテーマになることが多いのですが、当時の学生たちは、とにかく野球をやりたいという思いを純粋に持っていた。そのことに心を動かされたし、描きたかった」という。戦争への言いようのない重苦しさが漂いはじめた時代に、青年たちが真剣に野球に傾ける情熱が、試合のシーンにもリアルに伝わってくる。
3作続いて日本統治時代の作品づくりは、台湾の人たちにどのように受け止められているのだろうか。「台湾の人たちにとって統治していた日本に対する思いは複雑でしょうね。日本が敗戦した後、中国から来た国民党が政権を握りました。日本に対する教育は変わりましたが、日本に対する恨みとか批判的な感情は必ずしも漢人や原住民など台湾人が抱いていた思いと同じであるとは言えないところがあります。この作品をプロデュースした思いの1つは、今こそ台湾人は台湾人として自信をもつべき時期ではないかということです」
近藤監督率いる嘉農は、その後も33年、36年(春・夏)、37年に甲子園出場を果たしが、決勝戦まで勝ち進んだのは最初の31年のみだった。作品のエンドロールに、選手たちのその後の略歴が紹介されている。漢人の呉明捷は、早稲田大学に進学して大学リーグでのホームラン記録を長嶋茂雄に破られるまで保持していた。
原住民の真山卯一は、高校教師を務めた後に宣教師になり原住民伝道に尽力した。「原住民の9割は、カトリック、プロテスタントを含めクリスチャンといわれます。真山さんは長生きされて、後年クリスチャンになられた漢人の蘇正生さんと2000年にお二人が再開され感激し合っていました。ちなみに、私もクリスチャンです」。
複雑な戦後史を見つめてきた監督としての眼差しが、3民族のアイデンティティを認め合う1つにチームにまとめあげた近藤監督への敬意が伝わってきた。 【遠山清一】
「KANO 1931海の向こうの甲子園」
監督:マー・ジーシアン 2014年/台湾/185分/映倫:G/ 配給:ショウゲート 2015年1月24日(土)より新宿バルト9ほか全国ロードショー。
公式サイト http://kano1931.com
Facebook https://www.facebook.com/Kano.japan
2014年第51回金馬奨観客賞・国際映画批評家連盟賞受賞。第9回大阪アジアン映画祭観客賞受賞。第16回台北映画祭観客賞・助演男優賞(ツァオ・ヨウニン)受賞。Yahoo ASIA BUZZ AWARDS2014―香港Yahoo人気大賞―海外映画賞受賞作品。