改めて日本国憲法天皇条項を考える 須田毅(西堀キリスト福音教会牧師、日本福音同盟社会委員)

2018年05月06日号 04面

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 「トマスはイエスに答えた。『私の主、私の神よ』」(ヨハネ20章28節)。「イエスは私の神」という告白は、簡潔であるが、

神が私たちに与えた信仰を力強く表すものである。この告白は誰も奪うことができない。

 日本伝道において大きな壁は天皇制である。かつて大日本帝国憲法(明治憲法)第1章は天皇条項であった。第3条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とし、現人神として神格化した。第4条において立法・司法・行政の三権の源泉は天皇にあり、国の主権が天皇にあるとした。明治憲法下の天皇の力は国民にとって巨大だった。

 第二次大戦後の日本国憲法(現憲法)も第一章が天皇条項だが、内容は明治憲法と異なる。現憲法の特徴のひとつは国民主権であり、それゆえ天皇に主権がない。第1条「天皇は、日本国の象徴であり…、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」の通り、主権者の国民の総意に基づき、天皇は象徴の地位にあるに過ぎない。国民に主権があり、明治憲法にある三権の集中は天皇にない。第4条1項「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」などから、天皇の国事行為は儀式的なことのみで、政治的介入は一切無い。天皇に関して真っ先に章があるのは、天皇の権能は制限的なものだと、全体の最初で示している。

 戦後、現憲法が施行され「天皇が神でなくなった」と安堵したキリスト者がいた。明治憲法から現憲法への移行を経験したキリスト者は、主イエスを「私の主。私の神」だと堂々と言って生きるという、当たり前の信仰の生き方を、取り戻した。

天皇を神格化しないとする現憲法を、歴史を引き継ぐ私たち自身はどのように意義あるものとして保てるか。来年には天皇の代替わりが行われる。 新天皇を神格化する意味もある神道行事の大嘗祭も、国の行事として行われる。最近の教会の中、

そのような動きに対する反応は少ない。「天皇制について云々すると、教会が反社会的存在のように見られる心配を感じる」という声も聞く。約30年前の大嘗祭前には、広く教派を超えて諸教会は協力し、大嘗祭の国家行事化に対し抗議を表した。教会の天皇制の課題は変わらないのに、課題に取り組むはずの教会はこの30年で大きく変わってしまった。

 先の心配は、キリスト者自身が天皇を再び神格化する社会的雰囲気に巻き込まれ、社会的流れに同調しない教会が味わうを避ける意図から出るのではないか。現憲法による天皇像は、文言によれば神格化される存在でない。天皇を制限的な存在でしかないとする点において、現憲法の天皇条項は、意味があるだろう。日本宣教における歴史の流れを良く振り返り、キリスト者にとっての現憲法の持つ益を理解したい(共同の憲法学習入門のため、日本福音同盟発行『その時に備えて 憲法問題Q&A』2016年発行もご利用を)。

 時代は新しく移り変わるのに、天皇を神格化するような流れを感じるのが近年の現実である。2012年作成の自民党改憲草案は、天皇を「元首」とする。改憲の流れは徐々に強くなりつつある。現段階では9条についての改憲がもくろまれているが、それに続いて他の条文の改憲提案も出る恐れがある。改憲手続きとしては衆参両院の3分の2以上の発議が重要であるが、それ以上に重要であるのは、国民投票である。結局は、国民ひとりひとりが改憲の是非について問われている。だからこそ十分に各自が平和のこと、また天皇制のことを考え対話しなければならない。平和の理念を崩してしまう安易な改憲はしないのだと、個人が明確にすることは重要である。以後に続く恐れがある、制限的な天皇条項を逆行させる改憲案も無意味だとしたい。