2018年05月06日号 07面

いのちのことば社CS成長センター主催の「CS教師セミナー2018」が4月21日、日基教団・富士見町教会(東京都千代田区)を会場に開催された。今年はキリスト者学生会総主事の大嶋重徳氏を講師に迎え、「教会教育と信仰継承」をテーマに220人が参加した。
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大嶋氏は冒頭、教会、教会学校の現状に触れ、教会員数の減少、献身者の減少と兼牧率の上昇、半数の教会で教会学校が行われていないなどを挙げ、その理由として、▽少子化、▽治安の悪化(宗教に対する警戒、子どもだけで送り出せない)、▽子どもの娯楽の変化(今は赤ん坊さえもタブレットをさわる。教材の研究開発が子どもの現状に追い付いていない)、などを指摘した。その上で、教会の構成メンバーが変化し、かつては子どもが多数派だった(教会予算も子どもたちのために使った)が、今は高齢者が増え子どもたちが教会で少数派になっている、しかし「これからの教会を考えるとき、何を大切にし予算をかけていくかに、教会が何を大事にしているかの現状が表れている」と語る。IMG-8104

礼拝に子どもの
場所はあるか

マルコ10章13から16節の、人々がイエスのところに子どもたち連れてきたことを弟子たちが叱った記事を引用。「この子どもたちは、ギリシャ語では幼児から12歳くらいまでを指す言葉。赤ん坊も含まれていた」。弟子たちはなぜ叱ったのか。
▽イエスが疲れていたので弟子が気を遣った。
▽当時のユダヤでは子どもは数に数えられなかったので排除された。
▽イエス様の説教が子どもたちの騒がしい声でかき消されないために排除された。
しかし、叱った弟子たちにイエスは憤られた。「憤る」という厳しい言葉には、子どもを軽んじる態度に対するイエスの厳しい態度と子どもたちに対する温かい鮮やかなイエスの想いが表れている。「神の国はこのような者たちのもの」とは、「この種」「この階層」のという意味であって「子どものような心を持っている者」という意味ではない。子どもたちこそが神の国の住人だということであり、子どもたちは神の国に場所を持っているのだと示されている。「このみ言葉は私たちの教会のあり様を問うている」
日本には「大人の礼拝」と言う言葉があるが、これは聖書のどこにも書かれていない。この言葉こそ日本の教会の礼拝における子どもたちの場所をあらわしている。「礼拝は厳粛に行うべき」「落ち着いて礼拝出来ない」「親のしつけがなっていない」「子どもには説教がわからない」「CSが終わればそれで良い(礼拝に出なくてもいい)」等々、「これらの言葉には弟子たちが子どもたちを締め出したのと同じ要素がある」。DSC02225
厳粛さ、伝統など、大切にしなければならないものはあるが、礼拝は大人だけのものではない。子どもたちはそこにいても良いという程度のものではない。「この箇所でイエス様は神の国には子どもたちの場所があると言った。神の国の中心は礼拝。子どもたちはそこに場所を持っている」
子どもは、幼児洗礼を授ける教会では「小児会員」として会員名簿に加えられる。献児式を行う教会では、両親が子どもを捧げますという時、教会員一同が立ち上がって、この子どもの信仰が神様の前で告白されるまで私たちは全員でこの子どもたちを育てていくということを誓約する。「その意味で礼拝が子どもたちと一緒に出られるものとなっているか、配慮をする責任がある」
それは子どもだけでなく、その両親に対しても同様だと言う。「子育てで一番疲れている時、霊的にも渇いている時に、その父母を礼拝から締め出していくようなことを教会はしてはならない」。子どもが泣いても親が居づらくならないよう、教会員もそこでは配慮が必要だと言う。「子どもが騒ぐのは2歳くらいまで。3歳くらいになると、その上の4、5歳のお兄ちゃんお姉ちゃんたちが静かに礼拝に出ているのを見て、必ずその空気が子どもたちにも伝わっていく。そうなるには10年はかかるだろうが、大人も我慢しなければいけない」。神の家族の礼拝として、子どもたちと共に礼拝を捧げていくために、10年かかることの決断を私たちはする必要がある。(つづく)