2018年07月01日号 01面

 来年創設50周年を迎える福音主義医療関係者協議会(EMF)は、50周年記念シンポジウムシリーズの最初として、東日本大震災支援関連シンポジウムを5月26日に、福島県いわき市の保守バプ・いわき希望教会で開催した。同震災シンポは2011年9月にも開催された。今回はその後の教会の状況、EMF各メンバーの支援活動が報告された。EMFは聖書信仰に立つ医療関係者・社会福祉関係者の交流を推進してきた。震災時は、有志で福島県ほか各地の被災地を支援してきた。EMF会長の下内昭氏がレポートする。

IMG_2542震災シンポ集合2

 11年9月に同じ会場で、EMFのメンバーが震災直後からそれぞれが関わった支援について、分かち合いのシンポを開催した際に、何年後かにもう一度、復興の状況を振り返ろうと約束した。

 今回は、①過去7年間の福島の教会や地域の人々への支援を振り返る、②現在の教会と地域の状況と課題を知る、③将来の支援の方向性を確認する、ことが目的であった。発表の中心は、現在、被災地で活動されている教会の方々である。以下は各発表の要約。

 「南相馬市から」(石黒素枝=単立原町聖書教会牧師夫人) 

 東日本大震災により、私たちの住んでいる南相馬市の海沿い地区は壊滅的な被害を受け、津波による死者は636人であった。また、東京電力福島第一原発の爆発により、原発から20キロ圏内は避難命令区域になり、住民は強制退去となった。しかし、全国各地の教会、キリスト教団体、クリスチャンの方々が、直接訪ねてくださり、励ましの手紙と共に、たくさんの支援をいただいた。からすを用いられたエリヤの神様が、いろいろな教会やクリスチャンを用いて私たちを養ってくださった。幸いなことに、避難した信徒は、若い姉妹一人を除いて、全員戻ることができた。

 この震災で、私たちは多くの苦しみを経験した。けれども、一人一人が悩み、砕かれて、主への信頼、信仰を強くされた。そして、この地で、この教会で、兄弟姉妹と共に生きていくこと、礼拝を共にできる幸いを再確認し、喜びが増し加えられた。震災時、支援をいただき、同じ信仰を持つ人々が、こんなにたくさんおられるのだということを肌で実感した。今も交流を持っている教会、兄弟姉妹がいる。

 南相馬市の現在の状況と今後の見通しとしては、小さい子どもや小中学生のいる家族や震災で仕事を失った人々は、避難したところで落ち着き、仕事を持ってしまうと簡単には戻れないようだ。また、放射能の身体への影響を、特に若い人々は心配して、戻ることをためらっているようだ。放射線値が低くなったとはいえ、他の地域より高い地域に20年、30年と住んで、身体への影響がどうなのかは、誰にも分らない。ただ願うことは、この地に住む人々が平穏な毎日を送ることができるように、この地が、子どもたち、若者たちが安心して住める地となるようにということ。この地に置かれている原町聖書教会として、この地にあって、世の光、地の塩として、この地の人々に仕える教会とならせていただきたいと、心から願うばかりだ。

「震災支援活動から教会のあり方を考える」(増井恵=同盟基督・いわきキリスト教会・泉グレイスチャペル牧師) 

 私たちの教会は、震災以前は地域コミュニティと関わりが薄かった。しかし、被災地であるいわき市において、仮設住宅の建設によって新しいコミュニティーが突然教会のある地域に現れるような状況で、それを神様のみこころと受け取る中で、必然的に、教会とその地域コミュニティー(仮設)との関わりが問われることとなった。キーワードは、「支える 寄り添う」ということ。被災者の方々が、自分の足でしっかり立っていくことができるように、教会が表に立たず支えること、その悩みや葛藤に寄り添うことに留意した。支援活動と言いながら、教会が主導し、主体となるイベントはしないことにした。また、物資を集めたり、それらを使ったりした関わりをしないこと。支援活動のための献金は求めず、できるだけ教会、牧師の働きとした。当初は、教会であることを明確にしながら、ただひたすらに被災者たちの話を聴き、特に仮設のリーダー的立場の人たち(自治会役員、連絡員、社協、カフェリーダー)から話を聴いて、彼らの必要や、彼らの意思に基づく動きを支え、寄り添うことにした。具体的には、リーダーたちからの依頼で、ほっこりカフェ支援、女性の自立と生きがい創り支援、夏休み教室などの子ども支援、仮設イベント支援などを行った。この局面は本当に時間をかけてだが、「教会が信頼を得る」時となった。

福島の教会 継続する地域との関わり

18年3月11日、支援で関わる泉玉露仮設の最後のイベントとして、3・11慰霊祭とカフェボランティア感謝会を開き、ほっこりカフェに関わった70人が共に集まった。そこには、カフェのボランティアの仮設住民、歴代の自治会メンバーや社協や連絡員、民間のボランティア団体と教会(聖テモテ教会・いわきキリスト教会・他)、そして慰霊祭を担当した住職。この仮設の仲間たちを守り、盛り立て、元気に仮設を巣立っていけるように、戦ってきた仲間たちだ。220棟ある仮設で、自死者や孤独死者を出さなかったことは私たちの誇りだ。そして、カフェは同じスタッフが教会内で継続することとなった。

   「福島県キリスト教子ども保養プロジェクトの7年間」(木田惠嗣=ミッション東北・郡山キリスト福音教会牧師、ふくしまHOPEプロジェクト代表) 

 ふくしまHOPEプロジェクトでは、昨年末までに、38回の保養キャンプを実施し、のべ823人の親子(のべ431家族)がキャンプに参加した。

 このプロジェクトは、震災後、子どもたちを一時的にでも、放射線量の高い地域から被ばくする心配のない地域に連れ出し、思い切り遊ばせてあげたいという保護者の願いに応える形で、福島市内に形成された超教派の教会ネットワークの活動の中から生み出され、11年秋からスタートし、12年に全県的な働きとした。

いくつかテーマとなることがある。

 ①忘却。現在の福島は、仮設住宅が取り壊され、除染も次第に縮小され、郡山市では、除染除去土集積所への運搬が行われ、震災後ほとんどの公共施設に設置されたモニタリングポストも、一部撤去されると報道されている。外遊びが制限されていた子どもたちも、現在では、平気で外で遊んでおり、原発事故直後の混乱は消えた。

 ②フラッシュバック。時に、行政への不信感、時折発表される基準値越えの食品、日本各地からの地震のニュース、甲状腺がんの情報、高放射線量のホットスポットがいまだに存在していることを確認するたびに、ハッとする。

 今後の働きについては年8回から2回程度に絞った保養キャンプやデイキャンプ(日帰り)、HOPE CAFÉの開催、かつて自らが参加者であったOBの高校生・大学生がボランティア参加できるキャンプなどの計画、専任スタッフではなく、地域教会の協力によって開催するキャンプへの変身・甲状腺エコー検査の可能性は探りたいが、それにはこだわらず、教会を会場とした健康相談会の開催を考えている。

「この地で宣教する意味〜共に生きる」(住吉英治=同盟基督・キリスト福音教会牧師)  

 現在の訪問活動は、①双葉町の方々は帰宅できないので、復興住宅を訪問し、コンサートやカフェ、おしゃべりをする。②双葉町の特養ホーム「せんだん」の訪問。このホームは教会の近くにあり、すでにクリスマス会など数度訪れ、お交わりをしており、これからもボランティアを含め、継続したい。③楢葉町での活動継続。楢葉町は帰還が全解除された。いわきの仮設住宅で知り合った自治会長が現在楢葉に帰還し、自宅をリフォーム中で、現在、数人で屋根瓦の修復を行っている。完成後、そこを用いて支援活動を継続する。④富岡町における支援活動の継続と教会設立のビジョン。富岡はまだ一部帰還解除であるが、帰還者も少しずつ出ている。ここにクリスチャンの友達がおり、その友達の家を借りて支援活動を続け、やがてその地に教会を設立したいと願っている。

 このようにして、第1には帰還者の方に福音を伝える使命がある。少ないか多いかが問題ではなく、とにかく福音を伝えることである。そして、福音による復興・新生である。今回の三重苦、地震・津波・放射能汚染を通して、特に双葉郡の方々は生活と人生の根底を揺さぶられた。支援活動を通して強く教えられ自覚するようになったのは「支援活動は福祉の一環である」と言うことである。毛布や衣類、食事や医薬品などこれらをお届けしたのは、その方々の不足を補う働きであった。それを私は福祉の働きであると確信した。そのほかのコンサートや、マッサージ、カフェなども福祉であり、物心両面の支援、それはその人に必要な、その人を成り立たせる働きであると。それを私は福祉の働きであると考える。私は、教会の働きは魂の救い、福音を伝えることと、身体と心の支援・ケアをすることだと思う。

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 そのほか、「EMFの被災地の牧師家族リトリート」(報告:中村充=精神科医)そしてジャパンナースクリスチャンフェローシップ(JNCF)の「仮設住宅訪問による支援 継続的な関わり」(報告:福島知恵子=JNCF代表)の報告があった。外部からの支援に対し、「被災地にある教会にとって、大きな励ましだった。まだまだいろいろなことが途上にありますので、原発避難者支援のために、続けてお祈りいただきたい」と、ある発表者が述べられた。

 福島県は放射線汚染の問題で、他の被災地よりも複雑な悩み・課題が残されているにも関わらず、その地域で活動される教会の方々が、その困難を通して、よりたくましく宣教・牧会に励んでおられる様子をお聞きし、大いに励まされた。今後とも、交わりを通して、何かできることがあれば、行いたいと感じた。