2月3日号紙面:「死にたいと思う時ある」藤藪牧師と加瀬澤監督対談 「牧師といのちの崖」トークイベント
写真=藤藪牧師(左)と加瀬澤監督
和歌山県白浜町にある観光名所三段壁で、いのちの電話を運営する藤藪庸一氏(バプ連合・白浜バプテストキリスト教会牧師)の活動を追ったドキュメンタリー映画「牧師といのちの崖」が1月19日、東京・中野区の「ポレポレ東中野」で封切られた。20日夜9時の回の上映後には、藤藪氏と監督の加瀬澤充氏とのトークイベントが行われ、参加した観客は終電間際の時間まで、2人の話に耳を傾けた。【髙橋昌彦】
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加瀬澤 あそこで共同生活している人たちに、藤藪さんも自分の弱さをさらけ出していて、それが魅力的。同じ弱さを抱えている、ということが共有されているのが心地よかった。
藤藪 僕が守っているのは、牧師という自分の立場を降りないこと。それを自分の側から降りてしまったら、すごく彼らを裏切ったことになってしまって、信頼を損なう結果になる。なんとかそこに踏みとどまりながら、弱音を吐いている。
加瀬澤 この映画は3年前に完成していた。映画の最後は、あの中のM君が生き生きと働いているところで、将来に何か希望が見えたような形で終わっていた。その後に、彼が自ら命を絶ったという知らせをもらった。
藤藪 M君のことは、とても苦しかった。彼は信仰告白して洗礼も受けていた。田舎で料理人になるという夢を実現して、田舎に帰って友だちと一緒にお店を出して、料理を任されるようになっていた。亡くなる3日前にもお母さんの友だちを店に招待していた。信仰を持つに至って、希望を持ったはずなのに、その時、急激に落ち込む時が来て、一気にそんなことが起こる。彼はもともとうつという病気を抱えていたが、その病気の怖さだと思う。同時に僕らがわかっていないところで、ストレスをずっと感じていたのかもしれない。M君のお母さんと信仰の分かち合いをすることができた。亡くなる直前まで、絶対神様はM君に責任を持っていてくれたはずだし、僕らは彼のことを祈っていた。このことは受け止めるしかない。最後の最後、僕らが拠って立つのは、本当に神様しか無いな、と僕はいつも思っていて、お母さんともそういう話を電話で何回もした。天国で再会できる希望を、神様に祈りながら行きましょう、と伝え続けている。信仰を持っていても苦しくなって、死を考える時があると思う。それは落第者だと思う人もいるかもしれないが、実はそうではなくて、自分の許容量を一滴でも超えてしまったら、誰でも死にたくなるときがあると思う。信仰があってもそういう悩み苦しみつらさが、襲ってくることがあると認識していいのでは無いか。
加瀬澤 映画を作っていて、「自殺は絶対ダメ」とは、絶対言えないなと思った。自分の周りにそうやって困っている人がいたら、助けたいなと思うようになった。
藤藪 それは本当にうれしい。自分の働きは前任の牧師を引き継いだもの。不安はあったが、教会の働きとして続けるのは当然だった。目の前に差し出された手を受け止めたい、という気持ち。この映画を見て、みなさんがそんな気持ちに思ってくれたら、よかったなと正直に思う。