2019年02月03日号 08面

 「数学は、偏見からの解放と限りなく広い世界への自由な羽ばたき、人間が生まれながらに持っている未知の世界への憧れを具現化する美しい力を持つ」と言う数学者の眞中裕子さん(日本大学短期大学部助教)。

キリスト教に出合った当初は、「日本において、女性で、クリスチャンで、研究者というのは『三重苦』」と恐れていたが、信仰を受け入れてからは、生き方が「明るい方向」に変わった。若手のキリスト者研究者を励ます志学会の関東第30回公開講演会(2018年11月19日、東京・千代田区)では、専門とする関数解析の概念を、信仰の目で受けとめながら解説した。【高橋良知】

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人間が到達できない収束点に神の世界を思う

 専門は非線形解析学。特に、バナッハ空間における非線形写像の不動点定理とその周辺だ。

 講演では、まず距離について、数式で定義し、様々な距離にかかわる概念を紹介した。ある点とある点の距離が数列が進むごとに限りなく近づき収束する「コーシー列」に関しては、「空間によっては、収束点がある完備な空間と、そうでない空間がある」と言う。この概念を受けて、「人々は、真理を求めて到達しようとするが、この世の中にその到達点、収束点があるのかというと、無いなと感じる。収束点が存在する完備な空間を考えるとき、神の世界を思う」と話した。

 距離の構造も与える「ノルム空間」が完備とされるのが「バナッハ空間」という線形空間だ。バナッハ空間の中の特殊な状態がヒルベルト空間であり、この概念は、物理学、経済学、文化人類学における構造主義などにも応用されている。

 これらの空間では、関数もそれぞれの点として扱える。 「無限個の関数、軸がある。私たちは普段有限個の軸で物事を判断している。しかし、実際に神様の無限の軸の中だったら、ものごとが、まったく違う形、大きさをしているだろうと思わせられます」

イエス・キリストの横で憩うとき数学をやっていると思う

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 キリスト教に出合ったのは、進路を迷っていたときに、教育実習先で出合った、国際基督教大学出身の実習生から紹介された森有正著『アブラハムの生涯』。これが求道し教会に行くきっかけになった。

 洗礼を受けたのは修士2年。当初「神という概念を人間がつくったものであれば、むなしい。到達できない神を信じることできない」と思っていた。しかし、教会に行き、聖書を読むうちに思いは変わってきた。「もし、わたしを超えた存在としての神がいるならば、神の方からわたしに話しかけてほしい」と強く求めるようになった。そのような中、教会で開かれたコンサートのチェロの演奏の中で、「ふと『わたしはあなたと共にいる』という声が、わたしの中からではなく、わたし以外のところから聞こえた。それが神との出会い。わたしにとって神は、わたしが作り上げたものではなく、それを超えた存在、絶対的な存在であり、わたしに声をかけてくれた存在となりました」

 研究者としての人生の見方も変わった。「自己実現では、私の場合行き詰まる。この世界には優秀な人がたくさんいて、『わたしがやってもしょうがない』と思ってしまう。しかし、限界を超えた神に導かれているととらえたとき、意味が違ってくる。神様は、ここまでわたしを生かしてくれた。これから先も用いてくれると、明るい方へ、人生が方向転換されました」

 複数の大学の非常勤講師を続けるなどして、進路には悩んできた。しかし、非常勤で数百人の学生に微分方程式を教えてきたことが、大学数学の教科書の共著者に選ばれるきっかけになった。「歩みの中で、神様に導かれ、毎回どうしてということにもあった。いつか、この出版社で本を出せたら、という思いもあった。それが思わぬ形で成就していた」と感謝する。「神様が働いてくださる経験を一つ、二つとすると、大丈夫かなと思えてくる。神への信頼ができる。毎日のことをしっかりやっていこうという気持ちになります」

 研究生活をあきらめようと思った時期もあった。「不思議と身近な人が亡くなるなどして、こんな生き方ではいけないと思い直すこともありました」。親の老後や、自分の将来、経済的な不安もあり、教員の公募などにも挑戦したが結果はなかなか出なかった。最終的には非常勤で関わっていた現在の大学から、先任者の退官にともない、声がかかった。イザヤ48章17節に励まされた直後だった。「ベストなタイミングだった。数学を専門にしない学生との授業と研究の両立は大変だが、与えられた場で神様に信頼して歩みたい」と話した。

 好きな聖句はピリピ2章13節。「思いを与えるのも神。思いを素直に受け入れて」と勧めた。「天国でイエス・キリストの横で憩っているイメージがある。そのとき、わたしは数学をしているなと思う」と言う。「自己実現や業績というものから解放される。神様は目的に従って人をつくる。自分に平安、喜びがあるときは、目的にかなった状態ではないか。自分で『ねばならない』としてしまったりするが、やはり本質は、内なる声にしたがって素直にやることが大切だと思います」