ペンテコステメッセージ 聖霊の力受け世界中に福音を 小山健 単立・岐阜純福音教会主任牧師

日本の諸教会の皆様、ペンテコステおめでとうございます!。

キリストが天に上げられた10日後のペンテコステの日、最初の教会が実質的に誕生し、世界宣教がスタートしました。「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(使徒1・8)。
エルサレムから見ると、日本はまさに地の果てです。今この記事を読まれている皆様が、地の果てで福音を受け取り、教会に集っているのです。それはまさに御言葉の成就です。ハレルヤ!

①キリストの御名によって祈る
キリストは天に上げられる時、聖霊が下ることを待ち望むように弟子たちに教えられました。弟子たちは教えを守り「いつも心を一つにして祈って」いました(使徒1・14)。弟子たちは、どのように聖霊が臨まれるのかは具体的には分からず、これからどうなるのか、不安もあったことでしょう。しかし、彼らはキリストの御名によって集い、祈り続けました。そして10日後のペンテコステの日に、突然、聖霊が臨まれたのです。
皆様は聖霊の力を受けてさらに前進していきたいでしょうか。また、教会の成長を願われるでしょうか。そのためにはキリストの御名によって祈り続けることが大切です。私たちは不安や恐れに目を向け、失敗をすることも多々あります。しかし、「いつも」祈り、キリストにフォーカス(焦点)していく必要があります。「悔い改める」の原語の意味は「向きを変える」です。私たちは弱さのゆえに、罪を犯してしまいます。罪を意味するひとつの原語は「的外れ」を意味しています。私たちが的を外れ続けた人生を送り続けるなら、聖霊の力を受けた人生は送れません。しかし、私たちが悔い改めて祈る時、主は赦して下さり(Ⅰヨハネ1・9)、聖霊の力をもって、前進させてくださいます。もし今、示されている罪があるのであれば告白して祈りましょう。その時、聖霊の力により、進んでいくことができます。

②共に集う
弟子たちは「一つになって集まって」いました(使徒1・15)。その時、聖霊が下されました。
個人主義の時代に生きる私たちは「私の人生」や「私の損得」に捕らわれやすくなります。今日の教会の課題として、共に集まり、祈り、励まし合い、交わることが損なわれていく傾向があります。インターネットでメッセージを聞き、顔を合わせずにSNSで交流をすることもできます。しかし、ぜひ使徒2・42~47の最初の教会の姿を見てください。そこにはキリストの御名の下に集う、麗しい教会の姿があります。キリストの御名によって集うことなしに、私たちは(結果として個人としても)聖霊の力を受けて前進していくことはできません。
キリストは「聖霊があなたがたの上に臨む時、あなたがたは力を受けます」と言われました。聖霊の賜物、力は、共同体である教会に与えられています。私たちは共に集い、祈り、礼拝し、交わる必要があります。その時、教会は聖霊の力によって前進できます。

③主の御名と栄光のため
ペンテコステの日と全く逆の出来事が聖書にあります。それはバベルの塔です。人々は「自分たちのために」町や塔を建て、自らの「名をあげよう」(創世記11・4)としました。その時、主はことばを「バベル」(分裂、混乱)させ、人々を地の全面に散らされました。
私たちが主の御名以外のために生きる時、人生に混乱が起こります。また、教会がキリストの御名以外のために集い、活動するとき、分裂が起こります。今日、世界中の教会でカルトや誤ったリーダーシップの問題が起きています。そこにはキリストではなく「牧師やリーダーの名」や「教会の名」をあげようとしてしまう罪があります。私たちは改めて、キリストの名の下に集うことが教会の本質であることを覚える必要があります。私たちはただ恵みによって救われ(エペソ2・8)、キリストのからだである教会の器官とされています。キリストを頭として、主の栄光を目標とすることなく、聖霊の力を受けて前進していくことはできません。

④聖霊に励まされて前進する
聖霊が臨まれた時、弟子たちは、他国の色々なことば、異言で話し始めました(使徒2・4)。自分の国のことばで弟子たちが話すことを聞いて人々は驚き、ペテロによる御言葉の解き明かしを聞き、その日、3千人が救われました。バベルの塔でことばが分裂し、世界に人々は散らされました。しかしペンテコステの日、弟子たちにことばが与えられ、よき知らせのために世界中に送り出されていきました。弟子たちは聖霊の賜物を用い、共におられる聖霊の力を受けながら、世界中に福音を宣べ伝えていきました。
今日の私たちも同じ聖霊の力を受け、福音宣教のために前進していくことができます。「主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった」(使徒9・31)。日本の教会がただ主を恐れ、私たちの内側に住まわれる聖霊の励ましを受けて前進するとき、主が大いなる御業をこの地で見せて下さることを信じます!