インドネシア軍政下、日本の教会は? 南方派遣教師送り戦争に協力 沖縄キリスト教平和総合研究所特別講演会で原氏 「あの頃がいちばん充実していた」

太平洋戦争下、日本はインドネシアに軍政を敷いていたが、その過程で日本の教会は海軍の要請を受け、軍政の目的の実現のため教師を送っていたという。6月23日に沖縄慰霊の日を控えた15日、沖縄キリスト教平和総合研究所(内間清晴所長)は、日本とアジアのキリスト教の歴史を専門とする原誠氏(日本基督教団牧師、同志社大学名誉教授)を招いて特別講演会を開催。原氏は「インドネシアと沖縄(日本)のキリスト教が交差するところ〜民衆史を視野において〜」と題して講演。戦時下の日本のキリスト教が、軍政下、インドネシアの教会にどのように関わったのか、について話した。

原氏は同志社大学神学部在学中、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)に参加し、岩国の反戦コーヒーハウス「ほびっと」で活動していたと話した。
また26歳の時、修士論文を書く時に、資料を通じて三浦襄という人物のことを知ったと言う。「彼は牧師の息子で、明治学院を中退し、商売と伝道を兼ねたグループのメンバーとしてインドネシアに渡った。グループは崩壊し、多くのメンバーは日本に戻ってくるが、彼はインドネシアに留まり続け、ビジネスで成功、失敗を重ね、太平洋戦争時にはバリ島で自転車屋をやっていた。戦争が始まる直前になると海軍に軍属として招集され、軍と一緒にインドネシアに上陸。軍政の開始後、多くの仕事をしたが、そのなかで沖縄の糸満の漁師を夫とする女性と子どもたちを十数人集めて養ってもいた。住民に戦争に強力することがインドネシア独立のためになるとして協力せよと言っていたが、日本の敗戦後、独立ができなかったことに責任を感じ、『自分が架け橋になる』と公言して、三浦はピストル自殺した」
78年に同志社大学大学院を卒業した原氏は、霊南坂教会担任牧師に就任。80年に初めて沖縄を、82年にインドネシアのバリ島を訪問。「今は有名な観光地だが、私にとっては三浦が生きて死んだバリ島に関心があった。こうして民衆史の視点と方法論から、東南アジアに関心をもつようになっていきました」
その上で、インドネシアにおける日本の軍政の時代について語った。「オランダ植民地下で、スラウェシ、セレベス、モルッカ諸島、カリマンタン島など、ジャワ島以外の外島、外領でキリスト教が成立していたが、日本の軍政開始後、キリスト教は敵性宗教とされ、礼拝も集会も禁止した。教会は、教会間の連絡や牧師の給与の停止など、多くの面で大変な状況になった」
一方、「インドネシアの教会と日本の教会が交差することがある」と語る。「ファシズム時代の日本のキリスト教はどうだったか。1939年3月に宗教団体法が成立されるが、反対運動が全く起こらなかった。キリスト教が初めて宗教団体法の中に組み込まれたということは、国家がキリスト教を承認したということ。プロテスタントの場合、数も少ないのに教派がいろいろあり、それぞれが独立していた。これでは困るということで、一つにした。だが、宗教団体法の意味は、すべての活動が国家の戦争遂行のために従属することだった。ファシズム期の日本政府はキリスト教を撲滅したのでなく、〝日本のキリスト教〟になることを求めた」
そんな中、インドネシアの軍政を担当した海軍では、宗教政策として日本基督教団からインドネシアに「南方派遣教師」を送った。「最初に沖縄出身の宮平秀昌という人物がインドネシアで伝道活動をし、スラバヤに日本人教会を作った。だがその活動はオランダ総督府に目をつけられ、39年に国外退去を受けて日本へ帰国。日本ではインドネシア軍政開始と共に、軍属として赴任したが、現地教会の活動を再開させるべきと提言した。教団は白戸八郎を現地調査のため派遣。帰国後、派遣要員を20人選抜して派遣したが赴任途中で4人が魚雷で戦死している」
「モデルは日本基督教団みたいなものをインドネシア各地につくること」だった。「ある地域では、改革派であるオランダ国教会、セブンスデー、救世軍といろんな教派教会が入っている。これらを全部まとめて各地にキリスト教連合会にし、軍政に協力するということで合法的行政機関として活動を再開させた」 。彼らの職務は軍属として軍政の一端を担うことだった。
だが、そこで行われ、教えられていたのが「原住民の再教育」、「錬成講習会」、「基督教奉仕団」、「大東亜戦争の大義」、「新生道場」、「東方遙拝」だったという。「メナドでは、ミナハサ福音教会のベナスという牧師が、ゴルゴタの塔のモニュメントを作りたいと言ったが、拒否された。アンボンでは軍が教会堂を接収。聖餐式の道具、説教台など、礼拝堂に置かれた様々な聖具を乱雑に取り扱った」
戦後、原氏は帰国した南方派遣教師12人にインタビューしたが、何人かの牧師が、当時、教会の牧師として現地で働いたわけでも説教したわけでもない状況でありながら、「40年間牧師であったけれど、あの頃がいちばん充実した、手応えを感じた時代だった」と答えたという。
原氏は、「歴史の中では、被害者、加害者の両面性がある。そのことをどういうふうに自分の問題として受け止めるかが大切だ」と結んだ。
質疑の中では、「アンボンに派遣された加藤亮一牧師は、帰国後、東南アジア文化友好協会を創設し、お金を集めてインドネシアに送っていた。また、学生寮を作ってインドネシアの留学生を受け入れていた。これは加藤牧師の彼なりの戦争責任の受け止め方としての展開だったのではないかと私は思っている。こういう牧師もいた」とも応答した。