聖なる泉の水で飼う魚を世話するナーメ。魚はキリストの象徴としても意味づけられている (C)2017 BAFIS, UAB Tremora

ザザ・ハルバシ監督が、故郷のジョージア(グルジア)南西部、トルコとの国境を接するアチャラ地域に昔から口承で伝えられてきた物語をモチーフに、詩情豊かな映像美で古代の信仰の世界を継承しようとする父と現代の生活にも関心を抱く娘の在り様をとおして物質文明に埋もれていく自然と人の霊性への恭敬を静寂な情景で描いている作品。冒頭に、旧約聖書の「(闇が大水の面の上にあり)神の霊がその水の面を動いていた」(創世記1:2)という一節が記されるが、この寓話に通底するメッセージのように響いてくる。

“聖なる泉”を代々
守り続けてきた家族

アチャラ地域にある美しい渓谷を流れる清流が、かすかに濁り始める。上流では水力発電ダムの建設工事が進行している。その山奥にある村には、昔から人々の心身の傷を癒してきた聖なる泉があり、年老いたアリ(アレコ・アバシゼ)の家は代々この聖なる泉を守ってきた。村人たちが常飲できるよう泉の水を汲んで届け、身体の傷や神経の痛みを癒すため訪問する。

アリには、3人の兄弟と末娘たち4人の子どもがいる。だが、長兄のギルオギ(エドナル・ボルクヴァゼ)はジョージア正教の司祭、次男ヌリ(ラマズ・ボルクヴァゼ)はイスラム教の聖職者、三男ラド(ロイン・スルマニゼ)は無神論者の学校教師にと、“聖なる泉”を守る父親の信仰とはそれぞれ異なる道を歩んでいる。アリは代々受け継いできた泉の守り人の信仰をいっしょに暮らす末娘ツィナメ(愛称ナーメ:マリスカ・ディアサミゼ)に継がせようとしていた。しかし、ナーメはその務めを覚悟しているが、一方で村を訪れた青年に淡い恋心をいだくなど村の娘たちと同じように自由に生きることにも憧れ、思い悩む。

上流に建設される水力発電の工事が進む。泉から流れる水の状態を知る小さな池須に泳がせている一匹の魚。その池須の水が減ってきている。やがて、アリの一族が代々守り続けてきた“聖なる泉”の変化に父娘は気づかされる…。

聖なる泉の水で癒すナーメ (C)2017 BAFIS, UAB Tremora

ジョージアのポリフォニーのように
多様な人間性と自然との霊性を受容

紀元1世紀に聖アンデレがキリスト教を布教し初代の教会が今に残ると言われるジョージア。330年にはアルメニアに次いで2番目にキリスト教を国教に定めた国で現代でもジョージア正教徒が8割を超すといわれる。だが、隣国からの侵略を受けてきた歴史の中で本作の舞台と東ジョージアにはイスラム教徒も多い。父親のアリは土地に伝わる神話的な土着の信仰を継承してきたが、代々一族で継承してきた新子と受け継ごうとしない3人の兄弟だが、“聖なる泉”の水を大切にする父親とナーメの在り方には敬意の念を持っている。キリスト教、イスラム教、無神論の3人兄弟が身体の具合が悪くなった父の家でポリフォニー(多声音楽)を歌い、祖国ジョージアに乾杯するシーンは、多様な考え方や人間性と自然との霊性を受容しあうジョージアの風土が感じられる。

父アリとナーメに限らず会話が少ない。それでもジョージアの山深い村と泉の水面に立ち込める霧とニーナの立ち居振る舞いの美しい情景が、現代の物質文明に埋められゆく静謐な自然と人との霊性の交感を詩的に伝えてくれる。どちらかの文明の正邪を衝くのではなく、いま在る世界に形が無く見えないが失われていないものがあることを感得させてくれる。 【遠山清一

監督:ザザ・ハルバシ 2017年/ジョージア=リトアニア/ジョージア語/91分 /原題:Namme 配給:パンドラ 2019年8月24日より(土)より岩波ホールにてロードショーほか全国順次公開。

公式サイト http://namme-film.com
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*AWARD*
2019年:全米撮影監督協会賞スポットライト賞受賞。パームスプリングス国際映画祭国際批評家連盟賞ノミネート。 2018年:第90回アカデミー賞外国語映画賞ジュージア代表作品。 2017年:第30回東京国際映画祭コンペティション部門出品(上映時タイトル「泉の少女ナーメ」)。タリン・ブラックナイト映画祭オフィシャルコンペティション正式出品作品。