人間とは何か?自分とは何か? 愛、平和、希望、献身… 活水学院 院長 活水女子大学 学長 湯口隆司

人間とは何か?自分とは何か?

愛、平和、希望、献身…

 

活水学院 院長

活水女子大学 学長

湯口隆司

 

 

教育・宗教が自由市場に置かれた現代

 

政府が推し進めるSociety5.0への環境に対して、「教育再生実行会議」の提言にもあるように校種の違いを超えて概ね学校の対応は後手に回っています。教育の方法でも50代以上の教員はアクティブラーニングを教室で展開することに不安を感じています。

生徒学生の意識にも大きな変化があります。全国の高校では主権者教育を徹底していたはずですが、先の参議院選挙では10代の投票率が三十数パーセントに留まりました。

ポピュリズムの台頭はグローバリズムの負の部分ですが、近代社会の誕生以来、国家間の不信は結果として兵器や武器など「強さ」に頼る自己保身策に傾くことが続いています。市場の「自由な競争」は公正な環境が前提で、この信頼の上で自由主義が成り立ちますが、良いものは残り・勝つという19世紀にJ・S・ミルが標榜した自由市場(神による自動調整作用を含む)は、19世紀末にはすでに機能不全に陥りました。悪貨は良貨を駆逐し、経済だけでなく教育も宗教を含めた思想や文化も自由市場に置かれています。

 

学校教育がすべきことと

「人格の完成」という目的

 

「建学の精神」は国公立にはない私立学校独自の根本理念です。キリスト教主義学校の建学の精神と他の私学との違いは「キリスト教学校」に集約されるでしょう。

教育は「人格の完成を目指す」ことです。改正前の教育基本法の「教育の目的」は世界に誇れるものでした。旧教育基本法では「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し(以下略)」と記し、人格を完成する主語が曖昧で、そこにこそ「神様が」人格の完成をすると解釈できる余地がありました。しかし改正後は国民が人格を完成すると明示され、今や人格の形成は世俗化された自由市場の俎上(そじょう)にあります。

 

自由市場で試される

キリスト教の普遍的価値

 

「人格の完成」の理解の仕方は建学の精神の実践に現れます。創世記の始めに人は神の像にかたどって創られたこと、人は罪を犯し、それゆえに人はみな罪人でありかつ平等です。教育目的は同じ「人格の完成」でも、「神・イエスキリストによる人格の完成」を目指す点でキリスト教学校は他の私学と異なります。若者は自己責任を強調するようですが、罪人を救うという「神様の責任」の一端をキリスト教学校は委託されていると考えています。

封建制度の過去の押し付けを拒否し個人の自由な選択を近代社会は選びました。建学の精神でコア(核)となる聖書・信仰、そこから生み出された普遍的な価値を学校に入学する生徒・学生に自由市場の場で「何を・どのように」示していくかは、校種による教育実践上の課題です。キリスト教学校と教会とはこの提示の仕方が異なると考えています。キリストの名、そこから生まれた愛、平和、希望、献身といった普遍的価値、そして倫理、世界観、人間観。それらは市場の場で保護者、生徒、メディアなどにより比較され取捨されます。

 

 

科学で到達できない希望への学び

 

科学が教える作用因に対して 人生やいのちの目的・動機を

 

幼稚園では大声で讃美歌を歌い、アーメンを唱えながら、中高、そして大学段階では宗教全般への大きな疑念を持ち始めます。教科を学びつつ生徒・学生は人間観も同時に植えつけられていく中で、科学技術や進歩主義の価値観や価値の中立性を検討する授業が必要です。生物学ではゲノム的人間観、物理や化学ではアトム的な人間観や宇宙観。いのちと死の分野ですら、自己決定権、QOLなど脳に集約する人格観も可能です。そのような無機的な人間観と世界観に対して、共同体や隣人への共感性を議論する場が必要です。

小学校以来大学までの自然科学や社会科学の体系が作用因の説明に終始し、人生やいのちの目的・動機を示せないのはなぜなのでしょう。知識と理性は自己増殖するシステムであり、これを続ければ良い世界になるという教育の現場の楽観主義が根底にあります。根拠のないこの見方を批判し、いのちの有限性と存在の意味や理由を、教会はイエスの信仰から人の生きることと死の目的を明言し主張すべきですし、学校はこのコアの周辺部分である普遍的な価値の領域を多面的に提供していくべきだと思います。

 

 

ノウハウ追随への警鐘

情報では接近できない価値観

 

紀元前5世紀のアルファベット導入後の文字文化に対してソクラテスが否定的な態度をとったのは情報量でなく対話を通して自分の頭で考え、思索すること、つまり質と創造性の重要性からでした(『パイドロス』)。思索の深化は文字の所有ではないという指摘は、Society5.0の遅れを挽回するため核心を下位に置きノウハウ追随に追われることに警鐘を鳴らすものです。

ゴルゴタでイエスと共に十字架に架かった犯罪人の一人は、自分自身を救えとイエスを侮辱しました。自然科学や社会科学の知識はまさに同じ言葉を投げかけています。一方聖書の知識も理解もないもう一人の犯罪人は、自分の罪を認め天国への希望をイエスに懇願し、救いを経験しました。知識と理解では接近できない人の存在、価値、目的、そして希望を見出せるもう一つの選択がそこにはあるのです。