『奪われる子どもたち』出版記念パネルフォーラム “赦された存在”が生きる力に

 富坂キリスト教センターが行ってきた研究会「子どもの貧困とキリスト教」の3年間にわたる研究成果が『奪われる子どもたち−貧困から考える子どもの権利の話』(教文館)として出版された。2月24日には都内で出版記念パネルフォーラムが行われ、この本を執筆した研究員、小見のぞみ(座長、聖和短期大学教授)、浜田進士(青少年の自立を支える奈良の会理事長)、宮本みち子(千葉大学名誉教授)、糸洲理(あや)子(沖縄キリスト教短期大学准教授)、西島央(ひろし)(青山学院大学教授)、坪井節子(カリヨン子どもセンター理事)、前田美和子(広島女学院大学准教授)、今井誠二(尚絅学院大学教授)の各氏8人が登壇した。フォーラムの模様を採録する。【髙橋昌彦

 小見 まず、各章を執筆した担当者からそれぞれの章を概観してもらいたい。「はじめに」では、子どもの権利の問題を、「子ども自身のエンパワメント」というこの本がいちばん大事にしている中心的なテーマに沿って紹介している。子どもの権利はこの社会の中で最も踏みにじられている。見えにくく、彼らは声を上げられない。大人たちは、権利の主体者である子どもの伴走者、代弁者、擁護者でなければならない。

 原田 第1章「子どもには守られるべき権利がある」を担当した。貧困とは権利が剥奪されていることである。国連が採択した「子どもの権利条約」を日本が批准して昨年で25年になったが、その権利条約に何が書かれているかを書いた。子どもは一人の人間として尊重されること。親の所有物ではない。子どもはそこにいるだけで、存在するだけで力があること。何かをするからではない。そして子どもには、聞いてもらえる権利がある。子どもにとって一番いいことは、子どもに聞かないとわからない。厚生労働省もそのように施策を進めようとしている。子どもと大人が一緒に考えていこうというのが、「子どもの権利条約」だと思っている。

 宮本 第2章「子どもの貧困の実態と社会生活」では、子どもの貧困とはどういうものか、何をしなければならないのかを整理した。貧困とは、単なる低所得ではない。経済資本、人的資本、社会関係資本、トータルな子どもの状態。現在の社会保障制度も子どもの貧困を防止するのに十分でなく、家族のきずなも弱くなっている。目立つのは母子世帯で、その半分が経済的困窮状態。しかし、貧困状態の子どもの7割方は両親がそろっている。つまり、働いても生計が成り立たないようなワーキングプアが非常に増えている。

 糸洲 第3章「ウチナーンチュが語る沖縄の『子どもの貧困』」では、「貧困」ではなく「人権」という言葉で扱っている。沖縄では、「子どもの権利条約」が示す、生きる権利、育つ権利、守られる権利、参加する権利が十分に満たされていない。子どもはその状況を言語化できないが、自分が育つ世界に対して関心を持ち、この社会と人と関わろうとしている。それがどういうことかを、沖縄という少し離れた場所から示した。

 西島 第4章「『貧困』は子どもの将来にどう影響するのか」では、中学生対象の調査をもとに、18歳以前の家庭環境、地域環境が、将来の学歴達成に影響していることを書いた。努力しても認めてもらえない、したくても努力すらできない人を捕捉する時に、家庭の蔵書量というものを使い、それを、学校と似たような環境があるか、家庭の経済状況、保護者の働き方などの家庭環境を表す指標として、将来の進学希望の背景の違いを探った。保護者の働き方が多様化するのにともない、子どもと話す機会、社会関係資本の減少を指摘している。その改善として、部活動に対する期待ということでまとめた。

 坪井 第5章「今晩、泊まるところのない子どもたち」では、10代後半の、貧困だけでなく、虐待などで行き場のない子どもたちのシェルターを運営している立場から、彼らの状況、大人は何ができるか、何を理念とするかをまとめた。シェルターに来る子にとっていちばん深刻なのは「一人ぼっち」。彼らは人も自分も信じられず、自分からSOSを出すことなどない。彼らに関わる中で、自分の無力さを知らされるが、支援ではなく、ともに生きるというスタンスで、無力な大人たちがスクラムを組んで、彼らを取り囲み続けるしかないということを現場から報告した。

 前田 第6章「人はパンだけで生きるものではない」では、子どものスピリチュアルペインを取り上げた。これはWHOが緩和ケアの定義の一つとしたものだが、自分の拠り所の喪失、関係の断絶により感じる痛みである。子どもの貧困の状況を見ると、家庭や学校に居場所が感じられなかったり、関係の断絶が生じている時に、彼らは痛みを感じ取っている。政策や制度といった「パン」のことではなく、本当に大切にしてもらいたい部分が見落とされてしまっているのではないかと、問題提起をした。

 今井 第7章「子どもを受け入れるイエス」では、マルコの福音書から、一世紀の子どもたちの立場、彼らにイエスは何と言っているかを書いた。弟子たちが「来るな」と止めた子どもたちは、よく読むと彼らは親のいない子。飲まず食わずで伝道している弟子たちには、子どもを引き受けることはできない。しかし、それをイエスは叱る。この居場所のない者たちを受け入れずして、どうしてあなたたちは神の国の福音などを語れるのか。これはまさに、今も私たちに言われていることと、痛感した。

 小見 第8章「社会関係資本のワンピースになる」では、子どものエンパワメントのために何ができるかを書いた。それは、ささやかにでも関わること、社会的包摂力を高めていくための一員になること。その時には、信頼、みんなでやるネットワーク、いかにしてピースになるかを考えるときの規範が必要になる。

命の格差の中で生きる意味はあるのか

『奪われる子どもたち 貧困から考える子どもの権利の話 』富坂キリスト教センター編、教文館、1,980円税込、四六判

 浜田 この研究会での成果は、スピリチュアルペインと遊びの権利保障がつながったこと。命の格差の中で生きる意味はあるのかと問い掛けている彼らの総合的な痛みを解決するためには、遊びの中で総合的に回復していくことが必要ではないか。

 坪井 カリヨンにいる子どもたちには、大人と我を忘れて憂いなく遊んだという記憶がない。何の結果も求められず、一緒に笑ってくれる人がいるのは、遊ぶ権利の保障そのもの。彼らにそのことを実感してもらいたい。10代後半の大人になる寸前で、遊びのタネを埋め込みたい。

 西島 制度化されている学校にあって、部活はまだ遊びが通用する部分として残っている。大会で成績を残すためではなく、ほどほどにできるものとして、放課後とか週末の自由に遊べる場を学校にもう一回取り戻す。社会関係資本を作る場として、部活動を見直してもらえるといい。

 糸洲 幼児にとって大事なのは遊ぶこと。それも、彼らがやってみたいことをやること。そのために、人、もの、時間を保証する。そして安全に遊べる環境。沖縄ではそれが保証されていない。

 宮本 子どもの貧困は、親の貧困。離婚を原因とする母子家庭の貧困が最も高いが、離婚率が高い国の母子家庭が皆貧困なのではない。国の政策、労働市場の構造の問題。結婚制度が脆弱(ぜいじゃく)になり、女性が労働市場に大量に出て働かなければ生計が成り立たない今の状況では、子供の貧困は、女性の地位向上の問題と切ってもきれない

 今井 そういう貧困の状態のまま大人になった人たちの居場所を作るのが今まさに問題になっている。子どもの貧困と大人の貧困はつながっている。路上生活者に話を聞くと、子どもの時に選択肢がなかった。助けを求めることもできない子供たちに、今先手を打っていかなければ。教会がどれだけできているか。

 前田 子どもを対象にしたスピリチュアルケアは、まだ未開拓。緩和ケアでは、傾聴が第一だが、未来がある子どもたちにはそれでは不十分だろう。今までの話からは、遊びの大切さが浮かび上がる。自分を受け入れてくれる人がいて、自分は許されている存在であるということが、結局は子どもたちの生きる力につながってくるのだろう。それが聖書の教える愛につながる部分なのではないか。