「ウイルス禍についての神学的考察」

新型コロナウイルスの感染拡大が収まらず、依然教会における礼拝の持ち方にも様々な取り組みがなされる中、日本キリスト改革派教会(川杉安美大会議長)は、神戸改革派神学校校長の吉田隆氏による「ウイルス禍(か)についての神学的考察」を、関連教会・機関に配布した。この状況を教会がどのように捉え、キリスト教会内外に対していかにキリスト者として向き合うべきか、を神学的に論じている。前書きを除いた全文を掲載する(用字用語は一部修正)。

■聖書から
・多くの人々の命を奪う災禍として、聖書の昔から言われてきたのが、戦争と飢饉(ききん)と疫病です(エレミヤ14:12、21:7、27:8等)。人災と天災、そして(古代においては)原因不明の災いの三つです。しかし、すべては神の御支配の中にありますから、いずれの災いも人間の罪に対する神の懲らしめや裁きによってもたらされるものと考えられました(出エジプト9:15、詩篇89:31-33他多数)。

・したがって、これらの災いを治めてくださるのもまた主の御業です。人々は、礼拝で祈りを捧げて、災いを主が治めてくださるようにと願いました(Ⅱサムエル24:25、Ⅱ歴代20:9)。

・それとは別に、原因不明の病やカビなどにかかった罹患(りかん)者や建物などを一定期間隔離したり封鎖したりすることは、旧約聖書でも常識でした(レビ13-14章)。そのような人々や状態は宗教的に“汚れている”とされましたが、それは必ずしもその人や物への神の裁きを意味していません。ところが、そのような人々を差別して疎外し遠ざける(詩篇38:11、12)のは、人間の罪です。

・主なる神は、愛する者たちを「暗黒の中を行く疫病」や「真昼に襲う病魔」からもお守りくださる御方です(詩篇91篇)。しかし、たといそうでなかったとしても、病に侵された者を深く憐れんで触れてくださるのが、私たちの主イエス・キリストです(マルコ1:41)。

・聖書の神は、疫病をもたらすことも止めることもできる全能の神です。しかし、それ以上に、病に倒れようが人々から遠ざけられようが、ただ一人どこまでも関わってくださる愛の神です。病を支配する方であると同時に、病の如何にかかわらず、私たち人間を愛してくださる御方なのです。

・このような神の愛を信じ、この神の愛によって救われたキリスト者もまた、この世の病を恐怖の的のように見る必要はありません。剣であろうと飢えであろうと、キリストの愛から引き離すことができるものなどないからです(ローマ8:35)。

■教会の歴史から
人類は、歴史上、何度となくパンデミック(世界的流行病)を経験してきました。そのような中で、キリスト者たちは何を考え、どのように行動してきたのでしょうか。ここでは、有名な二つの例だけを御紹介します。

1.古代教会の例
紀元3世紀の中頃、アフリカから始まり一日に5千人近い死者を首都ローマにもたらした疫病が、古代ローマ世界を恐怖に陥れました。人々は不衛生な市中から田舎に逃げ去り(その結果さらなる拡大を招き)、罹患者は死人の如く市外に投げ出され、家族からも見捨てられました。
北アフリカはカルタゴの司教キプリアヌスが、説教の中で当時の社会状況と病状について詳細に述べたために、この疫病は”キプリアヌスの疫病(The Plague of Cyprian)”と名付けられてしまいました。
キプリアヌスは、その説教(『死を免れないことについて(De mortalitate)』)において、デマを退け信徒たちの心を覆っている恐怖心を取り除くために、いくつもの聖書の物語に言及しつつ、地上においては病にかかり苦しみ死ぬことは万人に共通であること、しかしキリスト者はその精神において異なっていることを力説し、次のように述べます。
愛する兄弟達よ。むしろ私達は、健全な心と堅固な信仰、強固な徳を備えて、すべて神の御心に従う者となりましょう。死の恐怖を退けて、死の後に続く「不死」について考えるようにしましょう。私達は自分の信じていることを示しましょう。親しい者の死を嘆き悲しむのではなく、また自分の召される日が到来した時には、私達を呼び寄せて下さる主のみもとへ、ためらうことなく、喜んで行こうではありませんか(24)。
神のしもべたちは常にこのように行動しなければなりませんが、特に今――この世が腐敗し猛威を振るう悪の嵐に圧迫されている今こそ、なおさらそうしなければなりません(25)。
(※説教全体は、オンラインで読める。「キプリアヌス 死を免れないことについて」で検索)
さらに、教会の執事を務めていた伝記記者(Pontius)によれば、キプリアヌスは信徒たちに、この災禍にあっては兄弟姉妹たちを助けるのみならず、未信者をも助けて善を為すように強く勧めていたようです。こうして、世は、キリスト者たちがいかに互いに愛し合っているか(ヨハネ13:35)のみならず、敵をも愛する愛をもって仕えていること(マタイ5:43-48)を知ったのです。このキリスト者たちの愛の業は、キリスト教公認に否定的であった皇帝ユリアヌスさえも認めざるを得ませんでした(拙著『キリスト教の“はじまり”』66頁注15参照)。
なお、付言すれば、先に挙げたキプリアヌスの説教は、カルヴァンが『キリスト教綱要』の中で死をも恐れない「キリスト者の生活」について論じる際に言及されています(Ⅲ:9:5)。

2.宗教改革期の例
14世紀の中頃、アジアからヨーロッパ全土を襲った黒死病(ペスト)は、ヨーロッパの全人口の4分の1から3分の1を死に至らしめたと言われています。その後も散発的に流行を繰り返したこの病は、1527年の夏、マルティン・ルターがいたヴィッテンベルクをも襲いました。時のザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒはルターたちに避難を命じますが、ルターはこれを拒否して町の病人や教会員たちをケアするために残ります。しかし、他の町をも襲った災禍の中で、キリスト者が災禍を避けて逃れることは是か非かとの議論が起こり、ルターにアドバイスを求めることになりました。これに応えて書いた公開書簡が「死の災禍から逃れるべきか」という文章です。
(英訳“Whether One May Flee From A Deadly Plague”は、オンラインで読める)。

この手紙の要点は、以下のとおりです。
(1)困難な時こそ神の召しに忠実であれ
ルターはまず牧師たち聖職者に対して、命の危険にさらされている時こそ、聖職者たちは安易に持ち場を離れるべきではないと戒めます。
説教者や牧師など、霊的な奉仕に関わる人々は、死の危険にあっても堅く留まらねばならない。私たちには、キリストからの明白な御命令があるからだ。「良い羊飼いは羊のために命を捨てるが、雇い人は狼が来るのを見ると逃げる」(ヨハネ10:11参照)と。人々が死んで行く時に最も必要とするのは、御言葉と礼典によって強め慰め、信仰によって死に打ち勝たせる霊的奉仕だからである。
牧師だけではありません。行政官などの公務員や医療関係者、主人と召使い、子を持つ両親に至るまで、各々が主から与えられた(他者に仕えるという)召しを全うせねばならないと、ルターは述べます。さらに、身寄りのない子どもたちや知人・友人に至るまで、およそ病の苦しみにある隣人をケアしなければならない。なぜなら、主が「私が病の時に、あなたは訪ねてくれなかった…」(マタイ25:41-46参照)と仰せになったからである、と。実際、困難な中にある隣人を助けないのは殺人と同じだ(Ⅰヨハネ3:15参照)とさえ言います。
つまり、このような災禍が神から与えられたのは、私たちの罪を罰するのみならず、神への信仰と隣人愛とが試みられるためである。悪魔は、私たちが恐れと不安にさいなまれキリストを忘れるようにと仕向ける。しかし「お前の牙に毒があったとしても、キリストにはさらに大いなる(福音という)薬がある…。悪魔よ、去れ!キリストはここにおられ、ここに主に仕える僕がいる。キリストこそ、崇められますように!アーメン」と、ルターは説教します(賛美歌“神はわがやぐら”は、この時期に作られたとも言われます)。

(2)不必要なリスクを避けよ
他方において、ルターは、死の危険や災禍に対してあまりに拙速かつ向う見ずな危険を冒すことの過ちについても述べています。それは神を信頼することではなく、試みることであると。むしろ理性と医学的知見を用いて、次のように考えなさいと諭します。
私はまず神がお守りくださるようにと祈る。そうして後、私は消毒をし、空気を入れ替え、薬を用意し、それを用いる。行く必要のない場所や人を避けて、自ら感染したり他者に移したりしないようにする。私の不注意で、彼らの死を招かないためである…。しかし、もし隣人が私を必要とするならば、私はどの場所も人も避けることなく、喜んで赴く。
このように考えることこそ、神を恐れる信仰の在り方であると。ただし、実際の現場においてどのように判断し行動するかは、各自が考えるべきこととしています。

(3)牧会的事項
何版も版を重ねたこの手紙に、ルターは後に、いくつかの牧会的・実際的事柄について書き加えています。
第一に、生と死について御言葉からよりよく学ぶために、信徒が教会に出席し説教を聞くように励ますこと。第二に、各自が常に死に備えること。第三に、病人が牧師やチャプレンの訪問を願う時には、なるべく早い段階ですること。第四に、病死した人をどこに葬るかは、医者や経験ある人々の意見を大切にすること(ルター個人は町外れが良いと考えるが)。最後に、サタンによる“霊的な疫病”との戦いに勝利できるように祈ってほしいということです。

なお、カルヴァンによる病者への訪問についての指示や、疫病で家族・知人を失った人への慰めの手紙は、『牧会者カルヴァン~教えと祈りと励ましの言葉』(新教出版社)

■ 教理的文書から
現在の状況について教理的に考えるべきことは多岐にわたりますが、ここでは『ハイデルベルク 信仰問答』の関係個所を中心に記してみましょう(下線部は、筆者)。
(※『ジュネーヴ教会信仰問答』『ウエストミンスター大・小教理問答』の当該箇所も参照)

○神の摂理について
天地の創り主である全能の父なる神を信じる私たちは、たとえその意味を理解することはできなくとも、一切のことが神の御心と御手によってもたらされることを信じています。
わたしはこの方により頼んでいますので、この方が体と魂に必要なものすべてをわたしに備えてくださること、また、たとえこの涙の谷間へいかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、信じて疑わないのです。(問 26)
神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです。(問 27)
(神の創造と摂理を知ることの益は)わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはできないと確信できるようになる、ということです。(問 28)

○命への配慮
『日本キリスト改革派70周年記念宣言』は、「殺してはならない」との第六戒について、次のように述べています。
命はすべて神のものである。消え入りそうな人の命を救い、万物を更新するために主は来臨された。生きとし生けるものはみな、神の愛によってこそ光り輝く。
命が自分自身の所有物ではない以上、私たちはまず自分に託されている命を大切にすることを心掛け「自分自身を傷つけたり、自ら危険を冒すべきでは」ありません(『ハイデルベルク』問 105)。しかし、それと同時に、主が私たちを愛してくださったように「わたしたちが自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人への危害をできうる限り防ぎ、わたしたちの敵に対してさえ善を行う」(問 107)ことが、私たちの使命であり特権です。ですから、私たちは世界中のあらゆる人々の健康を願って「わたしたちに肉体的に必要なすべてのものを備えてください」(問 125)と祈りつつ、為し得ることをするのです。

○隣人の名誉を守ることについて
誰でもがウイルスに感染する可能性があり、何より罹患した方自身が一番苦しむわけですが、その苦しみに追い打ちをかけるように様々なデマや中傷がネットなどを通して拡散することがあります。私たちは、上記の第六戒と同時に、「誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと」、むしろ「わたしの隣人の栄誉と威信とをわたしの力の限り守り促進する」(問 112)という第九戒にも心を留めたいと思います。

○試みからの助け
しかし、上に述べたすべてのことにもかかわらず、「わたしたちは自分自身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえ」できない者です。私たちの戦いは、最終的には霊的な戦いです。ですから、「わたしたちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全な勝利を収められるようにしてください」(問 127)と祈り続けることが必要です。

○教会の本質と使命
このような地上の命への配慮とともに、また、それ以上に、キリストの命の福音に生きる教会の本質と使命が、今日のような状況においてこそいっそう問われるように思います。 『70周年宣言』は、福音に生きる教会について、次のように述べています。
(牧会的共同体) 福音に生きる教会は、キリストの命が通う一つの体であり、互いに配慮しいたわり合う牧 会的共同体である。一つの部分が苦しめば全体が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば全体 が共に喜ぶ。/キリストの体では弱い部分・見劣りのする部分こそが必要とされ、重んじられる…。弱さの中に働く神の恵みの力を世に証することに、教会の光栄と喜びがある。
(福音の宣教と協働) 真の羊飼いであるキリストは、あらゆる人を命の福音へと招いておられる…。/一人一人の魂に寄り添い、失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くするキリストの牧会的宣教こそ、主の教会が担うべき働きだからである。
(世に仕える教会) この世界はなお産みの苦しみの中にあり、罪と悲惨に覆われている…。/十字架の福音に生きる教会は、自ら十字架のしるしを帯びつつ歩む。わたしたちは善をもって悪に打ち勝ち、主がしもべとなって世に仕えられたように、苦しむ人々と共に歩み、共にうめき、彼らのために執り成し祈る。愛をもって仕える業(ディアコニア)は、福音に生きる教会の本質をなすからである。

■いくつかの実践的課題について
以上の考察を踏まえ、諸教会が直面している(あるいは今後その可能性がある)実践的課題についても、いくつか思いつくままに記してみたいと思います。

○公的礼拝について
「主の日に、神への公的礼拝にあずかることは、キリストが求めておられる奉仕であり、すべての神の民の特権です」(日本キリスト改革派教会『礼拝指針』5 条)。このような時だからこそ「互いに愛と善行に励むように心がけ、…集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう」(ヘブ 10:24-25)。

○集会の自粛について
では、国や行政機関から、集会の自粛要請が出た場合はどうでしょうか。 確かに「為政者のために祈り…、良心のためにその合法的な命令に服従して彼らの権威に服することは、国民の義務」(『ウエストミンスター信仰告白』23:3)です。しかし、神礼拝は、国家の主である御方に対する務めであり、教会にしか為し得ない国民への奉仕でもあります。「国家的為政者は、み言葉と礼典との執行、または天国のかぎの権能を、自分のものとしてとってはならない」(同 23:4)のですから、その場合も、礼拝を続ける教会の自律性は奪われることはありません。
その上で、各個教会が、主から与えられた権能によって、状況を判断しつつ礼拝や集会の在り方を決めることは正当なことです。現在の状況において、礼拝出席者を始め地域や他者の健康に配慮することは、教会の義務です。礼拝を続ける際には、感染拡大を防ぐための常識的措置を取ること、特に密閉空間で行われる集会への懸念を払拭するための知恵が求められます。大人数で集まることが問題であれば、礼拝を分散さ せる・椅子の間隔を開ける・空気の入れ替えをする・場合によっては野外礼拝をする等、教会の状況を考慮した工夫ができるでしょう。神の平和を届ける教会として、自らが感染源とならないように、最大限の努力をいたしましょう。

○欠席者への配慮
しかし、それでも不安に感じる方や高齢者の方々など、「やむを得ず、主の日の集会を守れない者のために適切な配慮をする」(『礼拝指針』4 条2)ことも、教会には求められます。 とりわけ、御言葉の奉仕者を欠いた礼拝を個人または家庭で持たなければならないという特殊な状況が長期間にわたって生じた場合には、インターネットやテープやラジオなどを用いた礼拝の可能性を模索する必要が出てきます(『礼拝指針』44 条)。

○感染者へのケアと葬儀について
万が一、教会内で感染者が出た場合は、保健所の指示に従わねばなりません。また、当事者へのケア、またその方が召された場合の葬儀には、常日頃以上に牧会的な配慮と良識のバランスが求められます。
ルターやカルヴァンが論じているように、そのような時にまさって御言葉と祈りによる慰めを必要とする時はありません。牧師による愛と勇気、しかし(感染を拡大させないための)思慮深い行動が必要です。独断で行動せずに、教会役員を始め、他の同労者の意見や助けを仰ぐことも大切でしょう。

※ 以上は、神学校教授会のメンバーからの意見をいただきつつも、最終的には私個人の考察として 記しました。これらを踏まえて、さらにすぐれた考察や実際的対応がなされることを願っています。それまでの間、諸教会や奉仕者たちの働きを考える際の材料として用いていただければ幸いです。祈りをもって。(2020.3.17)