4月12日号紙面:24時間の祈りは聖書的か(上) 「時間」が信仰に成り代わる 関西聖書学院教師 ジャン・ドウゲン
24時間の祈りは聖書的か(上) 「時間」が信仰に成り代わる 関西聖書学院教師 ジャン・ドウゲン
感染症の脅威が広がり、教会でも熱心に祈りが捧げられる中、昨今の日本のキリスト教会における祈りの思潮を振り返る論考が、ジャン・ドウゲン氏(ジャパンベサニーミッション代表役員、真理のみことば伝道協会役員)より寄せられた。2回にわたって掲載する。
クリスチャンは、信仰生活を歩みながら聖書の教えを日常生活に適用し、霊的に成長して、神の栄光を表すことを切望する。そのため、信仰生活の原則と言われている聖書朗読、伝道、献金、祈りと奉仕に励むが、未熟な時には自信がなく、悩むものである。恐らく、いちばん悩むところは祈りかも知ない。「十分祈っているか」、「信仰を持って祈っているか」、「祈りは聞かれているか」など、見えない神への祈りには、苦手意識や不安があって当然である。
祈りについての書籍やセミナーがあふれ、より充実した祈りの生活を願う人々がそれらを求める。それは、神の御国を切望する我々にとって、霊的な飢え渇きの証しであり、自然なものであると言えよう。ところが、その祈りに対する純粋な心には、聖書的とは言えない教えも入り込みやすく、間違った方向に人を導く危険が潜んでいると私は考える。聖書のことばを借りて言えば「御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか」(ガラテヤ3章3節)。
「リバイバルがないのは祈りが足りないから」
戦後の日本は、かつてないほどの伝道の機会に恵まれているにも関わらず、「リバイバル」がなかなか訪れない。それはなぜのか。様々に語られる答えの一つは、祈りが足りないということである。それに対して時代時代にいろいろな勧めがなされ、近年も祈りを強調する、いくつものムーブメントが日本のキリスト教界に広がってきている。各地でそれらの大会が開催され、そのムーブメントを取り入れる教会も少なくない。祈りに対して異議を唱えることは、不信仰とも思われ、極端なことを言えば、霊的妨害とも言われるかも知れないが、私がこのムーブメントに対して感じるいくつかの疑問を整理して述べてみたい。
物差しが違う
「効果的な祈り」に大切なものは信仰である。アブラハムは、神を信じて義と認められたとあるように、救いから祈りまで、神様との関わりにおいて求められるものは、形式ではなく信仰だけである。俗的な表現を使えば、「量よりも質」ということになるが、たとえば「24時間の祈り」という考えを取り入れる時、何が大切にされているのだろうか。もちろん、誰もが質の高い祈りを求める。では、その「質」をどのような「物差し」で測っているのだろうか。それは単に祈りの時間の「長さ」なのではないか。
比較や罪悪感
私は、長年エホバの証人の脱会カウンセリングに励み、100人以上の証人の救出を手助けしてきた。彼らは、熱心に各地で戸別訪問をするのでよく知られているが、なぜそこまで熱心にできるのか。それは優れた信仰なのだろうか。彼らにとってそれは、実は「時間報告」なのである。一般的にエホバの証人は、自宅を出てからすぐに近くの「留守宅」のチャイムを鳴らし、そこから伝道時間を「測り」始めるが、、、、