緊急事態「それでも、礼拝の自由」 教会が教会であることの塩気を保てるか 寄稿・吉髙叶(日本バプテスト連盟市川八幡キリスト教会牧師)

 外からの「要請」と内からの 「自粛」という作用

 自由がこれほどまでに制限された日常を、私たちのほとんどが初めて体験していると言って良いだろう。しかも、その制限が「要請」という外からの作用と、「自粛」という内からの作用によって、どこまでが「自由の制限」なのかの境界もかなりあいまいになっている。

 戦時中の「欲しがりません、勝つまでは」は、人々の自発的な思いだったのか、それともがまんを強いる抑圧であったのか。後者に決まっている。 今回のことも、きっと後になって落ち着いて振り返ったときに、「あの時、もっとできるはずであった、もっとすべきであった『自由』の主張や行使まで手放してしまったのではなかったか」という点については検証に付されることになるのだろう。

 「なぜ礼拝するのか」

 「えっ、まだ礼拝を続けているんですか。この事態で集まって礼拝する理由を教えて欲しい」と非難まじりに問われることが増えてきた。そう、私の牧会する教会は、4月26日の時点で礼拝を「休止」したり「無会衆礼拝」にしてライブ配信するという道を選び取っていない。「なぜ礼拝をしないのか」ではなく「なぜ礼拝しているのか」を教会が問われてしまうことになるとはこれまで考えてもみなかった。 もちろん、私たちの教会でも、感染のリスクへの不安、体調のこと、交通手段、家族の気持ちなどを考慮して、気兼ねなく出席を控えることを選び取って欲しいとアナウンスしているし、また、玄関のアルコール消毒液設置、礼拝堂の換気や座席の間隔、礼拝時間の短縮(発声を伴うプログラムの一部割愛や説教時間の圧縮)、礼拝前後の拭き掃除など、取れる限りの対応は取りながら礼拝を続けてきた。

 決して、「どんなことになっても礼拝は続ける」と決めてかかっているわけでもない。毎週のように役員さんたちと確認し、共有しながら続けてきている。で、なぜ礼拝を続けているのか。、、、、、

2020年5月3日号「憲法特集」に掲載