ヤンシー氏 天国の価値を示すには どこに立ち、何に捧げるのか

危機に際しての祈りには、三つの段階がある。

第一段階はシンプルに「助けて!」と叫ぶこと。祈ることは恐怖と不安に声をあげることである。言葉を飾った行儀のよい祈りはいらない。ありのままの祈りを、神は望んでいる。

 自分の思いを口にするだけでなく、語りかけに耳を傾けることができるようになるのが、祈りの

第二段階、瞑想と内省、である。老後のための貯えが一瞬にして無くなったとしよう。危機の最中に思い浮かぶのは、日曜学校で歌ったあの歌である。

 賢い人が岩の上に家を建てた/その家は大丈夫

 愚かな人が砂地に家を建てた/雨が降り、水が湧き…

 危機に直面したとき私たちは、自分の人生をどんな土台の上に築き上げるべきなのか、考えることになる。経済的な安定や政府の危機管理能力がいかに信頼できるものであっても、それらは「岩」の土台とはならない。

 私の友人は、聖書は金銭について三つの主要な質問をすると言っていた。

 ①どうやって手に入れたか?

 ②それで何をしているか?

 ③それはあなたに何をもたらしているか?

 イエスが語った最も辛らつなたとえ話と言葉のいくつかは、その最後の質問の核心に直接迫る。経済的な危機は、金銭がどれほど私たちを縛っているかに気づかせてくれる。不要な贅沢(ぜいたく)品を購入していないか。周りに差し迫った必要のある人がいることを知ってなお、自分が持っている金にしがみつきたいと思っていないか。

 イエスは「みこころが天で行われるように、この地でも」と祈るように教えた。天国には、ホームレスも、貧困も、飢餓もないことを私たちは知っているはずだ。

 株式市場が未曾有(みぞう)の局面に陥っている今、私立大学、宣教機関、その他NPOなど、その運営を多くの寄付に依存している機関のことを考えざるを得ない。アメリカ政府は、今年の寄付金控除に関する規制を大幅に緩和し、より多くの個人が寄付しやすいようにしている。私の家の郵便受けには、多くの団体から緊急援助を要請する手紙が入っている。

 このことは私を祈りの第三段階、最も困難な段階に導く。自分が抱える問題をひとまず置き、本当に絶望的な状況の中にある人に思いやりをもって目を向けること。そのためには神の助けが必要だ。山上の説教の中でイエスが教えたのは、この世のすべての価値が逆転する天のみ国だ。

 新型コロナウイルスは今、社会に逆転現象をもたらしている。空港では、手すりを掃除し飛行機の座席を拭く清掃員が、ジェット機を操縦するパイロットと同じくらい、安全にとって重要になっている。私たちは、プロスポーツの試合が無くても、生きていけることを学んだし、むしろ、幼い子どもを抱えている両親は、スポーツ選手の百分の一の給料ももらっていない、学校の教師たちに新たな感謝の念を抱いている。

 私たちは今、本当に望ましい社会とは何かを考えようとしているのか、それとも、以前と同じ、楽しくおかしい毎日に一刻も早く戻りたい、と考えているのか。

 公正で思いやりのある社会は、より強固な土台の上に成り立つ。山上の説教は祝福の教えで始まり、岩の上に建てられた家のたとえで終わる。「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです」(マタイ7・25)

 ローマ帝国が崩壊に向かっていた時代、クリスチャンは貧しい人々の世話をした。疫病に苦しむ村から逃げるのではなく、むしろその犠牲者を介抱するためにあえて留まった。乳母の一団は、ローマ人が道端に捨てた赤ん坊を拾ってきては乳を与えた。当時のおぞましい「出産制限」の犠牲となった子どもたちだ。そのような行いにおいて、あの時代のクリスチャンは、社会の中で際立っていたのだ。

 今はどうだろう。クリスチャンが、今年献金する額を増やし、貧しい人々のために家を建て、他の致命的な病気と戦うことに捧げようと決心するなら、何という証しになるだろう。それはこの世の有名人主導の文化に、天のみ国の価値を宣言することだ。もちろんこのような行動は、理屈で考えれば常識的なものとは言えないものである。岩の上に建てられた家のたとえで主が語られた教えを、真剣に受け止めない限りは。(米クリスチャン・ジャーナリスト、フィリップ・ヤンシー氏のブログより抜粋)