福音派代表する神学者J.I.パッカー氏逝去 「普通の人」常に思い神学

聖書の権威を重視した福音派を代表する神学者、J・I・パッカー氏(以下敬称略)が7月17日、93歳で逝去した。20世紀の福音派、聖公会における様々な論争にかかわってきたが神学の専門家としてだけではなく、信徒向けの著作の執筆者として知られる。著書『神を知るということ』(旧訳『神について』、原書「Knowing God」)は、ミリオンセラーとなった。パッカーの生涯や著作を振り返ることで、戦後福音派の一端を知ることになるだろう。

米国福音派の雑誌「クリスチャニティー・トゥデイ」電子版は、パッカーについて、「彼は生涯、献身した英国聖公会の人物だった。しかし、聖公会を批判したりする他のプロテスタント教会の人たちとも活動し、改革派グループでも影響力があった。英国人であったが、成人してカナダに行き、いわゆる今の福音派の人たちと過ごした」と伝える。さらに「彼の関心は普通の人に関係することであった。いつも普通の人たち、牧師だけでなく、教会に礼拝に来る人たちに焦点を置き、その人たちに関心があった」と評価した。福音的な改革派の神学動向を伝えるオンラインサイト「ゴスペル・コーリション」も大きく特集し、「20世紀で、神学を一般に広めた、最も影響力のある一人」として振り返った。

1926年に英国グロスターシャー州北部の村で生まれた。家族は聖公会の伝統があったが、家庭で信仰について話すことはなかった。信仰の明確な回心は、18歳でオックスフォード大学に入学してから。教会の伝道集会でキリストに人生を捧げる決心をした。大学ではジョン・オーウェンの著作を通じて、ピューリタンについて学びを深め、生涯の彼の立場の基礎が築かれた。

48年に大学卒業後、ロンドンで古典語の教師となり、ウェストミンスター礼拝堂のマーティン・ロイドジョンズとも親交を深めた。これを通じて共同でピューリタン会議を設立。パッカーは聖職位のための学びをし、53年にはバーミンガム大聖堂の司祭として叙階された。54年には妻のキットマレットと結婚し、3人の子どもを育てた。

福音主義にかかわる論文を発表し続け、58年には最初の著書「”Fundamentalism” and the Word of God」(ファンダメンタリズムと神のことば)を刊行。G・ヒッバートの福音派批判「Fundamentalism and the Church」(1957)に反論し、福音的な改革派の神学者として注目された。聖書の英語標準訳(ESV)編集にも携わった。61年にはオックスフォードで、ジョン・ストットと福音主義のラティマー研究所を設立した。

1973年には『神を知るということ』で国際的な名声を得た。78年には、R・C・スプロールらとともに「聖書の無誤性に関するシカゴ声明」を発表。同年にはオックスフォード大学時代からの友人のジェームズ・フーストンの誘いで、カナダ・バンクーバーのリージェントカレッジの教員となり、96年まで専任教員を続けた。

様々な教義論争にも関わった。66年の福音主義大会でロイドジョンズが、聖公会から独立して福音主義独自の団体を設立しようと提案すると、ストットが反対。パッカーはストットを支持し、ピューリタン会議などロイドジョンズとの共同の働きは途絶えた。
94年には「福音派とカトリックの共同」という共同声明に署名したことで、スプロールと対立した。2002年にはカナダの聖公会で同性婚を祝福するための司式が承認されたことに抗議。08年にパッカーの教会は、カナダ聖公会から離脱し、より正統的とされる教区に加わることを決定した。

パッカー氏の主な 邦訳刊行著書

 

最も知られる著作は『神を知るということ』(渡辺謙一訳、2016年、旧訳『神について』山口昇訳 1978)。三位一体、神の威光、神の知恵、神の御怒り、神の愛など、神についての正しい理解を確認しながら、真に神を「知る」ことへと導く信仰書だ。「クリスチャニティー・トゥデイ」誌は「福音派を形成した最高の50冊」の第5位に選出した。同

様の視点で『伝道と神の主権』(内田和彦訳 1977)は伝道において神の絶対的主権を再確認した。

 

 

『私たちの信仰告白 使徒信条』(稲垣博史訳、1990)、『クリスチャン生活と十戒』(稲垣博史訳、1991)、『私たちの主の祈り』(伊藤淑美訳、1991)など信徒向けの教理入門書も定評がある。ウェストミンスター信仰告白を下敷きにした、『聖書教理がわかる94章』(篠原明訳、2012)は教理の全体像を簡潔な解説で学ぶことができる。


近年も論争が続く懲罰的代理論について、アリスター・マクグラスらによって「パッカー氏の最も優れた論文の一つ」と評される『十字架は何を実現したのか 懲罰的代理の論理』(長島勝訳、2017)が重要な論点を示している。