戦後75年 教訓の継承が急務

アジア太平洋戦争の日本敗戦から75年。戦中の反省を踏まえ戦後の平和運動をけん引した人々が天に召されたり、前線から退いている。今年はコロナ禍によって、関連集会が開催見送り、あるいは縮小化となった。状況に流されるだけではなく、いかに歴史と教訓を継承し、未来を展望できるかが急務の課題だ(4、5面で8・15特集「戦後75年 忘却の危機と未来への継承」)。信州夏期宣教講座エクステンションが7月23日に東京・世田谷区の日キ教会・東京告白教会で開催。渡辺鈴女(すずめ)さん(日本キリスト教会教師)が「ある軍国少女が経験した戦争―ニヒリズムからどのように立ち直ったか―」の題で語った。【高橋良知】

戦中10代渡辺鈴女さん語る 信州夏期エクステ

背筋をピンと張り、明瞭な言葉で話した渡辺さんは、1926年生まれの93歳。夫の信夫さん(3月逝去)と共に奉仕し続けた同教会で今も講壇に立つ。戦後、北陸学院、神戸女学院、女子聖学院などで教育に尽力した。
中国ハルピン生まれ。父は材木商。居留民会が作ったハルピン日本人小学校(後に満鉄経営)に32年入学。同年満州帝国建国で校歌の歌詞が変わり、「三国」(日本、中国、ロシア)から、「『五族』(日、漢、満。蒙、韓)の人の睦つめる…」と歌われるようになった。
「清の最後の皇帝を迎え、満州帝国を独立させたと教えられた。だから『満人』(漢族、満州族、蒙古族を総称した当時の呼び名)は日本人を好意的に見ていると思っていた。『満人』の友だちが一人でもいたら、本当の思いが分かったかもしれない。『満人』は使用人として雇っていたボーイくらいしか接触はなかった。しかし、なぜか韓国人は怖かった。幼いながら『韓国人は日本人を憎んでいる』と思っていました」
満鉄や関東軍関係の人々などで日本人は増加したが、「関東軍軍人は『満人』に対し傲慢だった。関東軍は敗戦前の8月9日に家族ごと引き揚げた。元々居留民を守るために来たのだと居留民は歓迎していた。しかし居留民をほったらかしにして帰国してしまい、敗戦後の居留民は困難を極めた」と話す。
母は神戸女学院で学び、ハルピンのメソジスト教会に通い、子どもたちは日曜学校に通わせた。「私は自分の名前の『すずめ』が嫌いだったが、『神様は軒の子すずめまで、お優しくいつも守り給う〜』の日曜学校讃美歌で、イエス様がとても大切な方になりました」
小学4年の夏、上級学校進学のため親元を離れ、初めて日本に帰国。日本人労働者を見て驚いた。小学6年時「支那事変」(日中戦争)が起きたが、正義の戦争だと思っていた。日本軍が中国で何をしていたかを知るのは戦後学んでからだった。
女学校3年時、太平洋戦争が勃発すると異常さを感じた。国防服を着た校長が赴任、ダンスの授業は「なぎなた」や分列行進の訓練、制服のスカートはもんぺとなり、防空訓練に明けくれた。
公立学校に嫌気がさし、卒業後は私立の津田塾専門学校の物理化学科に入学。津田英語塾が廃校を避けるために新設した科だ。寮は、上級生が個室という徹底した個人主義の校風だった。学徒動員時には勉学を継続するため、学内の体育館を工場にして対応していた。
45年6月、神戸の家が焼け、病身の叔父家族と共に明石公園に避難していた姉が爆死したとの知らせを受けた。公園が武器庫になっていたとは庶民は知らず、死体もなく衣服の切れ端があるだけとのことだった。「知らせを聞いて私は林の中で泣いた。戦争で何万人死んだと聞いても抽象的にしか感じていなかったが、こんなに悲しい思いを何万人の人がしているのか」と初めて戦争の残酷さを思った。
神戸の避難所を訪ねた後、母の郷里の倉敷に移った家族を探し当てた。半身焼けただれた弟の看護をし、東京へ帰れず、8月15日を迎えた。

「虚無」から真理追究へ

学校は10月から再開。学生は飢えた知識を満たそうと、著名な学者を呼び、講演会が開かれ、社会主義の勉強会も盛んに。だが「戦時中の自分の無知と愚かさを許せず、ニヒリズム(虚無主義)に陥った。ただ寮の夕拝には出席。ある同級生の敬虔(けいけん)な祈りに、ここに本当の世界が有ると思ったが自分はそこへ入れなかった」と言う。キルケゴールの『死に至る病』を読み、「死に至る病とは絶望であり、絶望者は自分に唯一の牧師がいることを知っていながらそこへ行こうとしない」とあった。「まさしくそれは自分」。先の同級生に誘われ、信濃町教会に通い、降誕節に受洗した。
ニヒリズムの最中に人との接触を避けたいと某社の研究室に就職が決まっていたが、「幼い日に主イエスを知っていたことの幸い」を思い、教師の道を選ぼうと山谷省吾牧師に相談し、日本で教師が得難かった北陸女学校(後に北陸学院)を紹介された。「戦時中、うそを教えなかったのは数学の教師だけだった」と数学の教員として赴任した。生徒たちには「あなたの理性を重んじよ」と教えた。
後に信仰教育の問題を、カルヴァンの教育思想に学ぼうと、神戸でカルヴィニズムで知られた教師の牧する教会に転籍。「教理は語られたが生ける神の言葉に飢え、信仰は危機に陥った。結婚相手と紹介された渡辺に、『この人なら私の問題を理解してくれるだろう』と思い、『結婚どころでなく信仰が危機に陥っているのだ』と告げると、
『カルヴィニズムでなく、カルヴァンそのものを読め』と、『キリスト教綱要』(中山昌樹訳)の読書を指導。三巻まで読み進んだ半年後、私の信仰は確立し、婚約、結婚した。夫が真のキリスト教会を目指して開拓伝道を志したとき、それに仕えようと、試験を受けて教師試補となりました」
東京では自給伝道のため教員を続けた。「女子聖学院就職後、靖国神社国営化法案問題が起きた。国家神道復活という教会の信仰に関わる闘いとして、同志と共に断食をし、父兄にも訴えの趣旨を印刷配布した」と話す。
教育基本法の勉強会も全職員で行った。「戦前の国家主権の義務教育を否定し、教育権は親にあり、公教育は親から委託されているとの自由主義国の理念だ。第10条には『教育行政はこの目的を遂行するに必要な条件整備を行わなければならない』とある。この教育基本法が改定され、国家が公教育の内容に関わり出した今日、教育は危機にある」と述べた。