宗教改革の過ちを正す? N・T・ライト義認論に対する改革派的調停案④終

2010年に米国ホイートン大学での神学会議で行われた、トリニティ神学大学教授ケヴィン・ヴァンフーザー氏の講演の要約、解説の最終回。同大学修士課程在学中の岡谷和作氏による。

前回は、従来の「義の転嫁」という表現に対し、義認を「キリストとの結合」とセットで捉える「組み込まれた義」(キリストとひとつになることでキリストの義にあずかる)という表現のほうがより聖書の記述に即しており、かつ従来の義認論(無罪宣言)とライトの義認論(共同体のメンバーである宣言)の双方の強調点を含む説明ができるというヴァンフーザーの提案を紹介しました。

3.義認と聖化の関係
義認論を巡るもう一つの重要な論点は義認と聖化の関係です。従来の救いの順序においてはローマ8章30節などに基づき、義認が聖化に先行すると考えられ、両者は区別されていました。しかしライトは、最終的な義認とは「行い」(聖化の歩み)に基づくものであり、現在の信仰者の義認は未来の義認を予期していると述べます。 ライトは現代の福音派に見られる「信仰告白さえすればその後の歩みに関係なく天国に行ける」というような考えに警鐘を鳴らすのです(*1)。しかしジョン・パイパーは、義認を現在と未来に分ける考え方は現在の義認を不確定なものとし、律法主義的な生き方を生み出すと警告します(*2)。 ヴァンフーザーは、ここでもキリストとの結合のモチーフは有益であるとし、カルヴァンを引用します。「あなたはキリストのうちに義を得たいと願いますか?それならまずキリストを得る必要があります。しかしあなたは、彼の聖化に加わること無くして彼を得ることはできません。なぜなら、キリストは分断されることはないからです」(*3) 。
カルヴァンによれば、義認も聖化もキリストとの結合から派生するのです。ここでカルヴァンは、、、、、、

2020年12月20・27日号掲載記事
※本講演に関する資料は以下のサイトで。https://chosen-sojourners.com/2020/10/27/vanhoozer-wright/

*1 N.T. Wright, Paul in Fresh Perspective, p. 57 ローマ2・13などから最後の審判は行いに基づいてなされると解釈し、最後の審判=未来の義認として捉えます。
*2John Piper, Future of Justification, 103-116.
*3カルヴァン、キリスト教綱、要 3.16.1