【2・11特集】寄稿・コロナ禍で制約される「信教の自由」 「恐怖」は思考力を停止させ大事なことすべてなぎ倒す 長老教会・西武柳沢キリスト教会牧師 星出卓也

新型ウイルス感染の拡大にあって、社会は大きな対応を迫られました。感染を防ぐために、人が集まることを避けることが必要とされる状況下で「交わり」や人との交流を基本とする教会の諸活動も様々な制約の中にあります。
教会が最も大切なものとして守ってきた日曜礼拝を閉じることを決断した教会も数多くありました。愛する人々を感染の危険にさらしてはならないという苦渋の判断によることと思います。そして今もなお、様々な対応に追われ、判断を迫られる中にあります。
このような状況下にあるからこそ、立ち止まって、考えなければならないことを、歴史の教訓から共に振り返りたいと思います。
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歴史の教訓から教えられることは、恐怖が広まる時、人は冷静な判断力を失いがちである、ということです。ある「恐れ」が広まる時、今まで大切なものとして守ってきた価値やルールも、いとも簡単になし崩しにされる場合があります。
冷静に考えて後から振り返えれば、あそこまでやったことは行き過ぎであった、と思うことも、動乱の渦中ではなかなかそのことに気が付けない。「恐怖」というものは、そのように時に人の思考力を停止させ、他のすべての大事なことをなぎ倒すパワーを持っているということです。私自身も数々の体験からこのような人間の弱さを覚えさせられます。
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戦争の準備が進む過程で、社会が持っていた民主的な仕組みが一つ一つ壊されるプロセスをたどりましたが、戦前の治安維持法に代表される人権を大きく制限した法制度も、ある危機感があおられ社会が恐怖に支配される中、民衆自身が「この非常時下にあっては、これ位の制約は仕方がない」と容認する中で、民主的な仕組みが壊されて行きました。
今日では、特高警察や憲兵らによるあれほどの人権無視の拷問や弾圧を、どうして社会は許したのだろう、と不思議に思いますが、恐怖を煽(あお)られた渦中にあっては、冷静にそのことを見抜くことは至難の業です。
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昨年春からの新型ウイルス感染によって世論は大きく変わり、不要不急の外出自粛、危険防止、は批判を許さない「錦の御旗」のようになって、一つの方向へと意見が塗り替わり、それ以外の考えや行動を許さない空気を生むようになりました。
自粛要請に従わない深夜の飲食店、パチンコ屋が非難され、若者のバーベキューがニュースで「けしからん」と報道され、それまで自粛に批判的だった人も、あっさりと自粛しない人を批判するように変わりました。自粛警察、マスク警察のように不寛容な社会の側面も強く現れました。
もちろん、新型ウイルスの危険性が認知されていない段階から、次第にその深刻さが知られるようになる中で、世論が変わるのは必然的なことですが、潮目が変わるごとくに世論が一つの方向にドッと塗り替わる特異さも同時に覚えます。

(この後、一時的に制限された権利が、長い歴史の中で獲得されてきた価値を語ります。2021年2月7日号掲載記事